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日蓮大聖人・池田大作

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孤独の二十八年  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  観光客でにぎわうグアム島のジャングルの中で、太平洋戦争生き残りの元日本兵が発見された。そこは奥深い密林で、現地の人もほとんど足を踏み入れることのないところだという。二十八年ぶりの発見で、まことに、現代の奇跡ともいうべきニュースであった。
 この事件に対する反応には、さまざまなものがある。原始的な生活条件のなかで、衣食住の工夫をこらし強靱に生き抜いた、逞しい生命力に対する素朴な驚きもある。また戦争が終わったことを知っていながら隠れていたのはなぜか、という質問に対して、この奇跡の元日本兵は「こわかったから。軍隊では『大和心で花と散れ』と教えられていたから──」と答えた。そこに、非人間的な生き方を強制した軍国主義時代の「悪夢の生き証人」とみる人もいる。他方では、文明の騒音を脱して、それなりに充実した生活を過ごしていたのではないか、というような若い世代の意見も聞かれる。
 それは「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓などまったく知らない世代にとっては、ほとんど理解不可能な心境ともいえよう。しかし、戦争の悲惨さ、暴虐な権力支配の残酷さは、漠然とながらも感得されるだろうと思う。いずれにしても、一見、繁栄と平安を誇るかのような日本の虚像の社会に向かって、鋭く突きつけられた無言の告発であると思われてならない。 換言するならば、それは、人間とは何か、戦争とは、文明とは──という、現代の最も本源的な課題の切実な問いかけである、といっても過言ではないだろう。
 ところで二十八年といえば──これは偶然の符合だが、二百五十年も前に書かれたダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』の主人公の無人島暮らしの期間と、ほぼ同じである。デフォーの小説には実在のモデルがあったとされている。スコットランドの一航海者が太平洋上の孤島に漂流し、四年間の孤独の生活を送った、という当時の評判になった事件から着想を得て、デフォーは筆をとったものであるらしい。しかし、この小説に生きいきとした実在感を与えているのは、あくまでデフォーの作家的想像力の豊かさなのであろう。
 だれしも幼いころに、少年向きにリライトされた『ロビンソン漂流記』を読んで、激しい興奮を覚えた記憶があるにちがいない。私も、その冒険譚のスリルに富んだ面白さ、ロビンソン・クルーソーの勇気と知恵に、むしろある種の羨望の感情さえ喚起されたものである。
 だが、のちに私は、リライトされたものではなく原作の完訳を読んださい、少年版とかなり異なった印象をうけたことが、鮮明に心に残っている。たしかに興趣に満ちた物語ではあるが、その底には、なにがなしに憂鬱な調子が流れていた。それは、生涯を波乱のうちに過ごしたデフォーの鬱屈した精神の内面を反映させたものであり、ロビンソン・クルーソーの孤絶は、当時の混沌たるイギリス社会における作者の深い孤独感に裏づけられたものであることを知って、私はようやく納得したのである。
 二十七年の長い孤絶のなかでロビンソン・クルーソーは、幾度か希望と絶望を繰り返している。ある日、彼は海浜に人間の足跡を見る。彼を襲ったものは極度の恐怖であった。なんという矛盾であろうか。「というのは、私の唯一の悩みというのは、私が人間社会から追放されたように思われることであり、ただ独りで、涯もない大洋に取り囲まれ、人類から遮断されて、私の謂わゆる沈黙の生活の宣告を受けたことであり、……然るに、実際、今私は人間一人を見ることの危惧で戦慄し、人間の片影とか沈黙の出現とかが島内にほんの足あとを残したにすぎなくても忽ち大地に沈み込みそうであった」(野上豊一郎訳)。
2  現代のロビンソン・クルーソーともいうべき横井さんにとってこの二十八年は、どのような時間の流れであったのか。──それは、目まぐるしい情報社会に生きる人々には想像を絶するものである。もちろん、見方によってはそうした極限状況というものも、現実には平穏な、また充実した日々でありえたかもしれない。喧騒に囲まれた現代人の眼に、その自然の生活がかえってなにかユートピア的なものに映るのも、あながち理由のないことではないようだ。しかしこれは、脱文明、脱都会の夢を託した想像の物語ではない。あらゆる憶測、忖度を超え厳存する事実である。
 このニュースがひきおこした異常な衝撃は、なによりも一人の人間が、生存の極限的な状況を、まさに日常的現実として生きたという事実そのものから発する、ある隔絶感によるものであると思える。
 しかし、さらに考えてみれば、状況の違いこそあれ、孤絶を強いられた生存の例は、現代の文明社会のなかにも、決してないわけではない。無実の罪のために忌まわしい被告の座に立たされ、半生、時には一生を空しく費やしてしまった人もあれば、不治の難病のゆえに楽しかるべき青春を奪われ、生涯を廃人同様に病床に拘束されて過ごさねばならなかった人も少なくはない。また、生存と利害の葛藤の激しい社会からはじきだされたり、温かな人間的感触の手応えのない、冷たい人間関係のなかで、生きる支えを失い、みずから死を選ぶ人もある。
 孤絶は、かならずしも原始自然のなかばかりではない。否、文明のなかの孤独地獄は、周囲の繁栄と対比して、いっそう深刻であるともいえるのではあるまいか。そうした状況のなかで生きる人にとって、現在の社会は、恐るべきジャングルとも映じるであろう。それを、悲しい宿命とか現代文明の必然とかいって、すましておくことはできないのだ。
 年に四万人もの日本人が訪れるグアム島──そこに孤絶の二十八年を生きた横井さんは、楽園に憧れる若者たちと交差しながら、今、祖国へ帰還しようとしている。そこで何を見、何を感ずることになるであろうか。長い孤絶から抜け出して、またもう一つの孤絶を見いだすというようなことがあっては、断じてならない。
 世間の好奇心やマスコミなどは移ろいやすいものである。いたずらに騒ぎたてることは慎みたい。ただ、すでに老境に近い横井さんの、残された生涯の時間が、少しでも意義ある、充実したものであることを、私は心から祈らずにはいられない。

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