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日蓮大聖人・池田大作

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滅びゆく都  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  むずかしい話をもちだすまでもない。人なかで、ハンドバッグを奪われた婦人が助けを求めても、だれも手を貸そうとしない、などという新聞記事はもはや目新しいものではなくなった。通行人が、協力して犯人を取り押さえた、ということが大々的に報道されなければならない時代なのである。
 近代都市の典型といってもよい、アメリカのニューヨークやワシントンで、夜の一人歩きができなくなってから久しい。昼は政治、経済界で世界の動向を左右するような中枢の大都会であっても、夜は、無警察状態になってしまうというのだ。夜、警護なしで一ブロック歩くことは、決死行だといってもあながち大袈裟な表現ではないという。人間という、地上で最も獰猛な野獣が、いつ襲ってくるかわからない──お互いが疑い、脅えきっている世界が、現代文明の頂点に現出している。
 こうした状況のなかで、私は、人類がすでに経験ずみの、ある時代を想起せずにはいられない。それは、あまりにも現代と酷似しているからである。
 帝政ローマの末期、建築技術に代表される技術文化は、かつてない隆盛を誇っていた。コロセウムは、その象徴的な建築物であるが、とくに、野を渡り、谷を越える水道橋の敷設はガリア、スペインにも遺構がみられ、高さ四十八メートルにも達するものが、今でも残っている。さしずめ、近代都市の高層建築といってよい。
 その一方、「パンとサーカス」の言葉に示されるように、ローマ市内の大衆は、為政者から支給される食糧によって、その日その日を口すぎし、人間と獣の格闘など残虐な見せ物に、憂さと退屈をまぎらせて明け暮れしていた。為政者からすれば、それによって庶民の政治的不満を抑え、フラストレーションのはけ口としたわけである。この点、現代のいわゆるレジャー文明と相通ずるものがあるといえるし、当時の道徳の退廃、なかでも貴族社会における性道徳の乱れは、現代のポルノ社会と異なるところはない。
 文学、芸術にしても、ローマ草創の新鮮な創造性が失われ、惰性のぬるま湯にどっぷりと身を沈めた状況は、現代のそれとまったく似ているといえまいか。 ローマ末期と、現代のこの酷似──咋年の夏、ニクソン大統領は、現代のアメリカ社会と末期ローマの酷似を取り上げて、アメリカの行く手に警告を発したが、それは、日本にとっても決して人ごとではない。
 地中海周辺の全域を掌中にし、さらにガリア、ブリタニアをも征服した、さしもの大ローマもゲルマン諸民族の侵入によりついに滅んだ。──その最大の要因は、外にではなく内にあったといわれている。栄華の絶頂にあって、人々は刹那的な快楽を追い求め、社会は乱れに乱れ、白アリに食い荒らされた巨木が倒れるように、ローマは崩壊したのであった。
 ではいったい、なにゆえに内部からの崩壊があったのであろうか。
 当時、ローマは精神的な混乱期にあった。外部から、さまざまの思想、宗教が入り込んでいたが、巨大な文明社会を支えるに足る精神的な土台とはなりえなかった。混乱した社会に蔓延したのは、終末観的な思想でしかなかった。
 「冬には種子を育てるほどの雨がなく、夏には穀物を稔らすほどの照りもない。……広場には無私、法廷には正義、交友には和合が失せはてた。……すでに衰退の道を降って終わりに近づくものは、何人とて力衰えるのをまぬかれない。これは世界にくだされた審判であり、神の法である」
 殉教した一教父の書簡の一節である。ここからは、新たな文化建設の原動力たるべき溌剌たる生命の光は感じられない。そうした終末観が社会をおおうとき、その社会に約束されたものは「死」以外にない。
 それは、末世思想が流布した、わが国の平安末期にも共通している。現実の世界よりも、来世で救われることを願って西方浄土をあこがれた当時の様相は、芥川龍之介の『羅生門』に鬼気迫るばかりに見事に描かれている。
 そうした混乱の時代に、死せる文化がどう蘇生し、新たな文化がいかに建設されたか。歴史の教訓をふたたび思い起こしたい。
 同じく、民族移動の結果として、ローマ文化圏を席捲しながら、ゲルマン民族は、ローマの退廃的な文化に巻き込まれたのに対して、サラセン帝国が、なぜ、ローマ圏のすぐれた文化を吸収し、生かしつつ、独自の新たなる文明を樹立できたのか。そこに、ゲルマン民族の原始的信仰と、サラセン人のイスラム教という高等宗教の違いがあったことを見逃すことはできない。「永遠のローマ」としてローマの精神が、ゲルマン民族のなかに蘇ったのは、やはり、のちにキリスト教がゲルマン社会の基底部に根を下ろしてからのことであった。
 平安末期の混乱も同様といってよい。新たな中世の胎動は、いわゆる鎌倉仏教によって開かれたのである。
3  文明、文化とは、端的にいえば「生き方」といってよいだろう。サラセン人は独自の生き方から、その文化を築き、鎌倉時代の武士階級は、その新しいものの考え方によって、一つの文化を形成していった。となれば、現代においても、文明を支え発展させ、人間が相互の信頼を取り戻し、人間らしく生きるためには、確固とした思想、宗教、哲学の興隆がなければなるまい。
 ともあれ、いたずらに刹那と現在の瞬間を浪費する時代とは、訣別する時がきたようである。

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