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日蓮大聖人・池田大作

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善い心 悪い心  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  たしか、この連載の二回目に、私はフランスの作家アンドレ・マルローの、ベンガル解放軍への入隊志願をめぐって書いた。マルローが、志願するしないで騒いでいるうちに、インドの介入によってバングラデシュの独立が実現してしまった。
 彼の意図が、奈辺にあったのか、今では知る由もないが、これで東西パキスタンは完全に分割し、国家がまた一つ増えることは間違いないと思われる。東西両ドイツ、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の分割などとともに、年を追うごとに国の数も増えるようだ。
 インドヘ流れた、数知れぬ東パキスタン難民の惨状もさることながら、解放なった同地で「裏切り者」に加えられている報復も、目をおおうものがある。必死に助けを請うビハリ族に、容赦なく厳しい制裁を加える市民たち。フランス革命の名物「ギロチン」からロシア革命後の粛清まで、革命には復讐がつきもののようだ。虐げられた人々が、鬱憤を晴らすかのように、残酷な暴行を繰り広げる。罪を償うに、より以上の罪をもってする──人間は、この悲しい罪悪の連鎖から、いまだ一歩も抜け出ていないようである。
 動物たちは、自分が飢えの絶対的危機に直面したとき、初めて同族相食むという。人間は、感情で殺し、利害、思想で殺し、そして趣味で殺す。相争う双方が、自分こそ絶対に正しく、相手は絶対的に誤っていると確信している。これが、弾圧やそれに対する報復を正当化するのである。人間生命を奪うことを認める「正義」が、この世に存在することが、私には悲しい。
2  こうした戦争の図式をみると、そこにはつねに、正義はみずからのみにあり、自国こそ善であり、相手は悪の権化であるという意識が双方にある。鬼畜米英と罵った、戦時の軍部政府がその典型といってよい。しかし、善と悪とは、そんなに画然と識別されうるものであろうか。
3  ある短編小説に、善人が同盟を組んで革命を起こすというのがあった。この世の中では、つねに悪人が権力を握り、善良な人々は圧迫されている。純粋な善人こそが権力を握らなければ平和はない、と叫んで結束した。そして、悪人どもを片っ端から抹殺していく。善人であるがゆえに、彼らは針の穴ほども邪悪を許さない。善人の社会を築くためには、悪人は存在してならないのだ、という大義名分が貫かれる。しかし、その善人の徒党こそ、いつのまにか最も悪逆の集団と化していたのではないか──という痛烈な皮肉を込めた小説であった。
 夏目漱石の小説『こころ』(岩波書店)にも、善人と悪人という規定が、はたしてありうるのかという命題が提起されている。 主人公の「私」が「先生」と呼んでいた人の遺書のなかに──「あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないといった事を」という件がある。善人ほど悪人に変わりうるものだという、人間のこころの不可思議な襞を、漱石は鋭く抉り出している。
4  仏法の生命論に十界という概念がある。生命の境界を十種に分け、最低を地獄、最高境界を仏と表現しているが、人界という、最も人間らしい境界を、そのちょうど中間においている。人間は、いわば、極善と極悪の中間的存在であり、そのいずれをも、生命本来の傾向として、内奥に秘めているというのである。ここに、生命の本源に対する一つの深い洞察があると思う。
 善と悪、天国と地獄、聖と俗。──西洋では、これらを二元的にとらえ、相対立するものと考えてきた。
 これが最も端的にあらわれているのが、アウグスチヌスの霊肉の思想である。霊とは、神に近づく不滅の道であり、肉とは、暗黒に沈む破滅への道である。したがって人間は、肉を捨て、ただひたすらに霊の道を求めることによって救済されるということになる。
 ここでは、霊イコール善、肉イコール悪という直線的な図式がある。しかしこうして、善と悪を対立的にみ、精神と肉体を二元的に把握するかぎり、人間はつねに、此岸か彼岸かの二者択一を迫られることになる。
 というのは、肉が悪であるといっても、現実の人間は、それによって生き、行動し、思索している。したがって、肉が悪であり、それを捨て霊に赴けといっても、生きている間は、人間はその相克から免れることができない。ここから結局、人間は、生きているかぎり、完璧な善など望みえないという結論が生じ、希望を死後の世界に託す、天国思想があらわれる。また、死後の世界を信じない者からすれば、しょせん、人間の現実存在は、地獄という以外になく、それを是認する形での虚無主義的な発想が生まれる。
 現代においても、一方では善を追究するための極端な禁欲主義、苦行主義があるかと思うと、他方では徹底した快楽主義、虚無主義が横行するのは、このためであろう。
5  善と悪とは、決して二元的なものではない。人間は善も悪も包含した統一的存在ではなかろうか。人間は、この真実の姿を、曇りなき英知の鏡で見極めなければならない。──そうすれば、善人であったものが、一転して悪人に変わっていったり、善を求めるようであってその実、人々に偽善を強要するようなことはなくなるであろう。
 私は、現代において大きな悪の根源とみられているエゴについても、同様であると思う。エゴという、自我の実在自体が悪なのではなく、それは善にも悪にもなるのである。
 もし、エゴというものが悪であるというのであれば、さきに述べた「肉」と同じように、生きているかぎり人間は悪の当体ということになり、永久に解決の法はなくなってしまう。
 要は、善悪いずれへもあらわれうるエゴを、どのようにして生かし導くかの問題である。そのためには、善悪に通ずるエゴそのものを如実に把握する以外にない。人間が、己自身の生命の姿を鋭く知悉することが前提である。その意味で、現代文明の行き詰まりから、人間の関心が人間存在の奥深くにあるエゴなるものに集まりつつあることは、大きな前進と私はみたい。
 このエゴというものを凝視していくところに、過去の傲慢を排し、人間の英知と情熱と意志の力を、善なる方向へ発現していく道が開けてくるはずだ。──揺れ動く七二年の課題がそこにあると、私は感じている。

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