Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

発想の泉  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  私たちが美を感ずるもののなかには、素朴なものもあれば、複雑で精緻なものもある。自然が単純で、人工のものが複雑だとはかぎらないが、概していえば、自然はどんなに複雑な模様からなっていても、それ自体として素朴であり、人工の美は、一見単純にみえても、それは巧緻の結晶であるといってよい。──私たちの美意識は、そのどちらからも、充実した美的感覚を享受するものであるようだ。
 どちらの美に比重をおくかは、個々人の嗜好によるところが大きいだろうが、近代人の意識は、とりわけ、複雑巧緻なものになってきている。素朴さというものが、とかく平板に流れるという傾向はたしかにある。それにあきたらず、関心がより精巧複雑なものに向かうのは当然といってよいかもしれない。
3  しかし、現代では、すべてのものが、あまりにも精緻に、複雑になりすぎているのではあるまいか。その研ぎすまされた精巧さ自体が、逆に平板陳腐なものとなってしまっている場合さえ、あるのではないだろうか。
 私個人の好みを、ここで普遍化しようとするつもりはない。また、いっさいの人工的なものを排せなどという、極端な主張をしようとも、毛頭思わない。ただ私が言いたいのは、巧緻の極に達して、あたかも迷路に陥っているような状態から抜け出すためには、文明自体が、もう一度、素朴な原点へ立ち返ってみる必要があるのではないか、ということなのである。
 よく現代社会の複雑さが指摘される。たしかに、利害も、関心も、多岐的であり錯綜している社会にあっては、官僚制という機構が必要になる。法体系も、細微を極めたものとならざるをえまい。だが、そのために、制度や法律そのものが自己目的と化して、その重圧のもとに逆に人間主体が束縛され、根本の趣旨が抹殺されかねない結果も招いている。
 また、人間の「心」というものも、ある意味では、それを分析していけば、限りなく複雑なものであろう。論理の仮借なき眼で、冷徹に見据えていけばいくほど「心」はますますとらえがたい複雑さの影を帯びていく。それは把握しようとして、分析のメスは、さらに尖鋭に研ぎすまされる。人間の表面的な姿や行動の奥に隠されたものを、その深層心理や意識の背後に探っていく試みは、そのあらわれであろう。──しかし、その極限にあるものは、分析的な論理によって、完璧にとらえられ、表現されうるものであろうか。
 もちろん、そういう試みが無意味なわけではない。しかし、その試みの原点にあった「人間」という存在を忘れて、観念の自己運動をいくら繰り返してみても、それで人間の把握が深くなったとはいえまい。うっかりすれば、果てしない迷路をさまよいつづけるだけのことにもなりかねないのではないか。
4  そういう反省は、これまでにもなかったわけではない。実際、複雑精緻な思索の森に、一度、身を入れ、そこでしだいに迷路に陥ると、人はまた、素朴な第一義ともいうべき出発点に戻らざるをえないものなのである。
 西洋哲学が、煩瑣な外套をまとって、哲学のための哲学に自己運動化する傾向がみられたとき、きまって強調されるのが、ソクラテスであり、デカルトであり、ルソーであるということは、興味深い事実である。言うまでもなく、ソクラテスは、「汝自身を知れ」との命題を、自己の哲学の出発と究極においた哲人であり、デカルトは「考える自我」、ルソーは「自然に還れ」という透徹した英知を秘めた思想家である。
 しかし、考えてみれば、この「汝自身」といい、「考える自我」といい、「自然に還れ」といい、その表現の奥にある発想は、決して複雑なものではない。否、むしろ、きわめて単純にして素朴な発見といってよいのではなかろうか。
 もちろん、これら先哲がこの結論や真理の発見にいたった道程は、単純なものではなかったろう。一つの事象に対し、それこそ壮絶ともいうべき対決を挑みながら、積み重ねていった結果の洞察なのである。
 ただ私が強調したいのは、歴史を動かす発見や真理というもの自体は、決して複雑なものではない。変動してやまない多様な事実の背景には、きわめて素朴にして平明な真理が、動かすべからざるものとして横たわっているものである、ということである。
5  「コロンブスの卵」という言葉がある。一つの偉大な事業や発見というものは、それがなされてしまえば、決してはるか彼方にあるものではなく、むしろ日常の平々たる地点にあるもののように思われるものだ。しかし、その身近な、ある意味では素朴であるといってもよい死角に、勇気をもって英知の光をあて、そこから普遍的な真理を浮き彫りさせることは、なかなかできないことなのである。哲人や偉人といわれる人物の行動や探究の裏には、かならず、こうした一見なんでもないような、それでいて画期的な発見、発想がある。それゆえにこそ歴史上にその名を長くとどめているのであろう。
 現代は、膨大な知識の洪水のなかで、こうした、瑞々しい大きな価値の創造をもたらす発想、発見が喪失されているのではないだろうか。
 思想、哲学がすぐれているか否かを決めるのは、複雑とか単純とかいった問題ではなく、創造的な発想をどこまで生かしきっているかだと思う。すぐれた思想体系の根底には、かならず生活体験から生まれた発想があり、それは、だれにでも理解でき、共感しうるものであるにちがいない。それを欠いた思想哲学は、どんなに壮大な体系を誇ろうとも、あえて言えば、ただ空しい殿堂にしかすぎまい。現実の人間生活の汗と体温のぬくもりのなかに、汲めども尽きぬ発想の母がある、と私は信じたい。

1
2