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日蓮大聖人・池田大作

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極大と極小の間  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  人間が、中間的な存在であると言ったのはパスカルである。
 「そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべての中間である」(『パンセ』)
 大宇宙の、人智の想像の枠を超えた壮大な規模からみれば、人間は、芥子粒ほどの存在でしかない。と同時に、パスカルの表現を借りるならば、ダニの血液のしずくのようなミクロの世界から比べれば、人間はとてつもなく巨大となる。この両極端の世界の中間に浮遊する葦のごとき存在──が人間というわけなのであろう。
 科学の眼は、この両極の世界のどこまでを探り当てているのであろうか。
 まず、極大の世界としては、地球や月という天体の分野がある。より大きくは太陽系。これは銀河系という渦状の星雲に含まれている。この銀河系星雲も、アンドロメダ大星雲やマゼラン雲などとともに、一つの星雲団を構成している。この星雲団の集まりが大宇宙──というところまでわかっているようだ。
 逆に極小の世界では、人間を形づくっている分子の世界が、まず現れる。もちろん、これは原子の集まったものだ。原子は、さらに原子核と電子とに分かれ、原子核は何百種類もの素粒子に分かれ――というように、これも日常的想像の域を出る、細密の世界が探索されている。
 パスカルが「理解することから無限に遠く離れている」と言った、両極の世界へ、現代科学はよくもこれだけ迫りつつあるものだと、感心もする。
3  近代以前にも、天空の星の集まりが宇宙だと考え、また、人間やあらゆる生物、無生物は「原子」によって、できあがっていると理解している人間も何人かいたようである。しかし、現実の極大、極小の世界は、さらに幾つもの階層に分かれ、それぞれが秩序ある一つの世界を形成しながら、その集まりがさらに大きな次元を構成していたのである。
 七月、中天を仰いでは、牽牛と織女の物語を想像した天の川も、円盤状の銀河系星雲を横から眺めていた姿にすぎなかったとわかると、少々抒情も失われるが、宇宙が、たんなる無秩序の集合ではないと知ることも、新たなる感興を呼び起こしてくれる。
 人間社会、人間的世界も、それなりの法則が統べているが、天体や原子という、人間と違った次元では、また別の法則が厳として存在する。宇宙に浮かんだ一個のオアシスとしての地球という、大きな次元での法則を忘れて、人間の独善で物事を考え、生産第一、利潤追求至上で進んだがゆえに、公害という、深刻な事態が現出してしまった。
 いかなる極微の世界でも、また幽遠な大宇宙にも、一定の秩序、リズムがあり、人間もそれらを無視してはありえないという、冴えた洞察の眼を、われわれはもたねばなるまい。
4  大宇宙や素粒子の世界――これらは、人間と、あまりにもかけ離れた存在のゆえに、そこを貫く法則もまた、われわれの想像を超えたものがある。
 それらの法則の一つに、相対性原理があろう。すべての運動は、相対的であること、光速は不変で、それを超える伝播速度はないという簡単な二つの原則から、ユダヤ人の天才アインシュタインは現代科学の画期的な基盤を築いた。そこから出る結論は、あまりにも超常識的な事柄ばかりである。
 光速に近い速度で離れているロケットの中では、時間が遅くなり、長さが短くなり、物が重くなる。ロケットの相対速度も、たんなる加減算は通用しない。そして、ロケットに乗って帰還した人は、地球にいる人よりも年が若く、今様浦島になるという結論ほど、人を驚かせるものはあるまい。
 そのほか、宇宙モデルとしてあげられた、閉じた四次元空間なども、この人間的世界の常識なるものを、一言のもとに粉砕するような大胆な説である。
 素粒子という、極微の世界でも、不可解さは変わることがない。古代ギリシャの昔、物質の究極の単位は「原子」であるとデモクリトスは推測した。これはあるていど正鵠を射ていたであろうが、事実はさらに複雑だった。
 物質の最小単位を追究しながら科学者は、それが単純な物質ではありえないという皮肉な結論に到達せざるをえなかったのである。素粒子が、粒子という言葉をもちながら、しかも同時に波動でもあるという厳粛な事実から、科学者たちは、物質に対する認識を変えつつあるようだ。
5  この極大と極小の世界の法則は、一見かけ離れているようでありながら、じつは深いところで結びついている。
 大宇宙の壮大な法則を啓示した、相対性原理は、最小の世界「素粒子」を追究して証明されたという。光速に近い、素粒子の寿命が延びていることが観測されたのである。また、素粒子の不可思議さに遭遇した現代科学は、物質の究極を一種の「エネルギー」「場」「回転」で理解しようとしている。大宇宙のモデルを追究する、宇宙方程式も、素粒子の「場の量子論」をもとにしているという。
 極大と極小の世界を追究する科学が、ともに非常に哲学的な言葉、概念で表現せざるをえないということも、興趣をひく問題である。
 物質至上主義に引きずりまわされ、あくせく争っているのは、その中間たる人間だけなのであろうか。
 幾重の次元にも、階層的に重なり合いながら、整然たる法則で統一されている大宇宙という場――そのなかの人間の「エネルギー」「生命の場」というものは、いかに開発されていくべきか。ここに哲学への要請があるように、私には思えてならない。

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