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日蓮大聖人・池田大作

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批判と研究  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。
 近年、日本の古代史に関する研究は、一種のブームとなった観があるようだ。私たちの祖先が、いつこの列島に住みついたか。また、古代の日本は、どんな国家体制をもち、それがどのように統合発展していったのか。これは興味の尽きない問題である。なかでも邪馬台国がどこにあったかをめぐって、論争は激しくつづけられてきた。
 『魏志倭人伝』に記録された邪馬台国――女王卑弥呼の支配する国の所在地については、従来、二つの有力な説が対立してきた。近畿(大和)説と九州説である。――しかし、この書物では、まず「邪馬台国」の存在そのものについて根本から疑問を投じている。
 著者によれば、従来の説は『魏志倭人伝』の原文にある「邪馬壹国」を「臺(台)の誤り」と、初めから前提している。これは、大和説、九州説と、相対立する説の双方に共通している。ところが、著者の疑問は、まさにここから始まる。「こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。わたしは素朴にそれを不審とした」と。
 この不審は、これまでの学説が、原典の誤写、誤字であると断定して解釈してきた幾つもの個所に及ぶ。そして、綿密、詳細に論証を進めながら、学界の定説に敢然と挑戦し、新しい解釈を提示しているのである。
 著者は、従来の原文の「改定動機」が、じつは近畿説、九州説のいずれの場合でも「邪馬壹」を「ヤマト」と読まねばならぬという先入観に立脚するところから起こったものであり、そのために、解釈上、都合の悪い個所を次々と「改定」してきたのであると論ずる。
 これに対し、もし原文の「邪馬壹」が文字どおり正しかったらどうなるか、という地点から出発して、その所在地を結論するのである。
 はたしてその推理の結果が正しいのかどうか――私にはもちろん、学問的な立場からその是非を論ずる資格はない。ただ、少なくとも本書を読んだかぎりでは、著者の論証は、全体としてかなりの説得力をもったもののように思える。これに対する古代史の専門学者の意見を聞いてみたいものである。
 いわゆる邪馬台国の所在についての問題はともかく、一読者として私が不審をいだいたのは、こうした意見が今日にいたるまでまったくなかったのだろうか、という、それこそ素朴な疑問であった。これも、著者の言うところによれば、江戸時代の新井白石、本居宣長から始まり、明治時代の白鳥庫吉、内藤湖南という、各時代の一級の学者たちから現代まで、このような解読の道を選んだ者は一人もいなかったということだ。
 私はアカデミズム――学問の世界の内情にはうといので、軽率な判断は慎まねばならないが、「邪馬台国」論争には、東大、京大という日本の二大学派の対立が背景にあったのは確かであるらしい。そして、東大系の研究者はほとんど九州説を支持し、また京大系の学者は近畿説を祖述するという傾向が、ほぼ固定化したのは、おそらく純粋に学問的な理由からだけであるとは思われない。
 著者は、少し前まで高校の教師を務めていた、言わば在野の一学究という。むしろ、そういう学派の固定観念にとらわれない自由な立場であるからこそ、本書のような思い切った研究も可能であったのだろう。その到達した結論が、はたしてホメロスの『イリアス』『オデュッセー』の記述を信じて、ついにトロヤの発掘に成功した、あの錚々たるシュリーマンのごとく、実証される日があるかどうか――しかし、孤立した研究の道を、執念にも似た異常な情熱を傾けてたどろうとする姿勢は、充分にうかがわれるのである。
2  ところで、本書でも重要な問題となっているが、原典批判ということがよくいわれる。歴史上の事実を記録した原典そのものにあたり、これを批判的に研究することによって、初めて確かな史実が抽出されるということであろう。
 歴史も学問である以上、この方法は、どこまでも貫かなくてはならないのは当然であろう。
 事実、近代の歴史学の発展には、こうした原典批判に負うところが大きい。今日の西洋史の源流である、あの古代ギリシャの歴史も、こうした原典の批判的研究によって、十九世紀において明らかになったといわれている。また、とかくナゾに包まれがちであったインド古代史も、サンスクリットの原典の科学的解明で明確になった。原典の科学的解剖は、まさに近代史学の発展の重要な要因であったといってよい。
 だが、ここで注意しなければならないのは、原典批判という場合の「批判」の意味である。
 われわれは、ともすれば「批判」という言葉を、今日の合理主義精神に反するものを批判するという形で受け取っている。いわゆる「批判」精神などという用語は、その代表的なもので、それは合理精神にほかならない。
 もちろん合理精神それ自体を悪いというつもりは、さらさらない。しかし、この合理ということは、きわめて安易に「われわれの時代で常識とされていること」に置き換えられている場合が多い。つまり、今日、常識と考えられていることに反するから、それは間違いであるという考え方である。
 だが、これがはたして峻厳な合理精神といえるであろうか。そこには、あまりにも現代の知識に対する信が、無批判に前提されているように思われる。たとえば、古代や中世はきわめて単純で原始的であり、近代以後の知識からすれば遙かに粗雑であったにちがいないという、現代人の横暴なる“常識”がある。
 たしかに知識量の差は大きいかもしれない。だが、さまざまな事象、事物を全体的に把握する力――英知の働きにおいて、はたしてそんなに格差があるのだろうか。私は、ある場合には、古代の人々が記したもののなかにも、時代の流れを超えて現代に深い示唆をもたらす知恵が含まれているのではないかと考える。実際、博識で浅薄な精神の場合もあれば、単純で真実な精神というものもあるのである。
 「批判」はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ「批判」にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも「批判の眼」が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから――。

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