Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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事実と真実  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  ここ二、三年、学生と機動隊の衝突の模様がテレビで放映されることが珍しくない。手製の爆弾や火炎ビンを投げ、市街を破壊する学生たち。それに対抗して、催涙弾を撃ち込み、警棒を振るう機動隊。同胞同士の悲しい傷つけあい殺しあいが、生の形で茶の間に飛び込んでくる。
 痛ましい惨状を、テレビカメラは追いかける。あるときは苦痛に満ちた学生の表情を、あるときは阿修羅のごとき機動隊の突撃を──。おそらくカメラは、ありのままの状況を視聴者に送るべく使命感に燃えて活躍しているにちがいない。しかし、限られた瞬間に茶の間の庶民が知ることができるのは、特定の場面でしかありえない。たとえ何台のカメラを動員したとしても、衝突の全体を画面に映しだすことはまったく不可能だからである。
 そこに、テレビの大きな制約がある。だが、だいたいの人は、そうした制約を念頭において画面を見つめるわけではない。映しだされたその場面を全体の象徴として受け取るのが、むしろ普通であろう。庶民は一部分をもって全体を想像するしかないのである。
 そうしたとき、機動隊が学生に水をかけ、追い散らしている場面が印象深く映しだされれば、見る人は学生に同情し、機動隊の乱暴な行為に怒りをおぼえることだろう。一方、学生が市街を破壊したり、機動隊を袋だたきにしているシーンが、故意ではなくとも結果として強調されれば、批判の眼は学生の暴力に対して向けられるにちがいない。
 むろん、画像はすべて事実である。ありのままの姿である。しかし、その事実が真実を余すところなく物語っているかといえば――きわめてむずかしい問題が残ると言わざるをえないのである。
3  私は、事実は大事にしたいと思う。正確な事実の把握がなければ、判断に狂いを生ずる。とともに、部分の事実に導かれる真実をもって全体の真実を見誤る愚かさも、避けねばならないと思うのである。
 たしかに、一事が万事ということもある。本源を把握するならば、たとえそれが一部分であっても、全体を洞察できよう。だが、それには、目にふれた事実が、全体に通じるものであるかどうかを判断する必要があるのである。
 一つの事実をもって早計に結論するのではなく、事実と事実を丹念につなぎあわせ、綜合の眼で真実を見極めていく努力が、とくに今日、必要ではなかろうか。
 というのも、現代社会のさまざまな対立、抗争、憎悪も結局、そうした個の事実をもって即座に全体の真実とみるところに起因しているのではないかと思うからである。家族間の反目、職場での対立、そして国家間の紛争にいたるまで、すべてそこに原因があるといってよいほどだ。
 また、一つの事実を全体の真実と見せかけるのは、それがきわめてもっともらしいものであるがゆえに、権力者がわれわれを欺くためにとる常套手段だといってもよい。賢明な民衆は、それを見抜く力をもたねばなるまい。
 そのためには、ある一つの事実に対して反対の事実があるかないかを考えるゆとりが必要なのであろう。とくに、人間に関しては、絶対的な善人とか悪人とかがいるわけではない。そこに人間の本性に対する理解と寛容の心が要求されるのではあるまいか。
 事実の奥に潜む真実――そこにどこまで迫れるか。それが人間の英知というものだろう。

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