Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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事実と真実  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  いつの時代にあっても、事実ほど人の心を動かすものはない。不信と断絶の社会であればあるほど、それはなおさらだ。百の不確定な情報よりも、一つの厳粛なる事実が人を納得させるものである。
 公害が現代文明の大きな問題として取り上げられ始めたころ、こんな話を聞いたことがある。
 ――ある臨海工業地帯で、企業の排出する廃液のため沿岸の魚が臭くて食べられないという事件が起きたことがあった。当然、漁業組合は長期にわたる補償を要求した。ところが企業側は、一時は要求に応じたものの、完璧な汚水処理を施すようにしたから補償を打ち切りたいと言いだした。しかし組合側としては、生計の道を断たれたと納得しない。
 なんとか莫大な補償をつづけずにすむ方法はないか、企業側は知恵をしぼった。そこで考えだした一計が、廃液を処理したものを社内のプールに注ぎ、そこに魚を放つという案であった。加えて、プールの周囲に芝生を植え、日曜日には市民の憩いの場として開放する。第三者である市民に、事実の姿で排水の無害であることを証明し、補償打ち切りに有利な世論をつくりあげようというわけだ。
 結果は、見事、企業側の思惑どおりになった。排水のプールを泳ぎ回る魚群の影は、市民にその無害性を印象づけた。世論は企業側の主張に傾き、組合側の主張は無謀な要求として映ったのだった。
 巧妙といえば巧妙なやりかたではあるが、この話は「百聞は一見にしかず」の諺どおり、百万言を費やすより、たとえ作為されたものではあるにしても、事実を示すことがいかに強いかを物語っている。結局、補償は打ち切りとなったわけだが、逆に組合側に事実をもって示す知恵があったならば、企業の言うなりにならなくてもすんだかもしれない。
 私はこの話を聞いて、事実のもつ強さとともに、その魔術的な力に思いをいたさざるをえなかった。
 プールの水はたしかに処理された排水であったにはちがいない。魚が泳ぎまわったのもまた、事実ではあろう。だが、プールの水が海に吐き出されるものと同じものであったのかどうか、さらに、長い期間でみた場合、本当に無害といえるのかどうか、プールの中で泳いでいた魚という確かな事実も、それらの疑問に対しては明快な解答を与えていないのである。
 事実はたしかに事実であり、虚偽でも虚構でもない。企業側が真実を隠蔽したのだろうと勘ぐるつもりもないが、一般的にいっても、一つの事実がはたして全体の真実を物語っているかというと、無条件でそうだとはいえまい。個々の事実は、その限りにおいては真実ではあっても、全体としてみたときの真実とはまったく逆の場合もないとはいえないのだ。いやむしろ、事実が反駁の余地を許さぬ大きな力をもつものであればあるほど、一つの事実を絶対視する危険性はきわめて大きいといわねばならない。
 たしかに、事実をつかまなければ真実はつかめない。が、と同時に、事実だけでは真実はつかめないのである。「顔で笑って心で泣く」のが男だという。笑った顔は一点の疑いのない事実である。しかし、その事実は決して真実ではないのである。
2  ここ二、三年、学生と機動隊の衝突の模様がテレビで放映されることが珍しくない。手製の爆弾や火炎ビンを投げ、市街を破壊する学生たち。それに対抗して、催涙弾を撃ち込み、警棒を振るう機動隊。同胞同士の悲しい傷つけあい殺しあいが、生の形で茶の間に飛び込んでくる。
 痛ましい惨状を、テレビカメラは追いかける。あるときは苦痛に満ちた学生の表情を、あるときは阿修羅のごとき機動隊の突撃を──。おそらくカメラは、ありのままの状況を視聴者に送るべく使命感に燃えて活躍しているにちがいない。しかし、限られた瞬間に茶の間の庶民が知ることができるのは、特定の場面でしかありえない。たとえ何台のカメラを動員したとしても、衝突の全体を画面に映しだすことはまったく不可能だからである。
 そこに、テレビの大きな制約がある。だが、だいたいの人は、そうした制約を念頭において画面を見つめるわけではない。映しだされたその場面を全体の象徴として受け取るのが、むしろ普通であろう。庶民は一部分をもって全体を想像するしかないのである。
 そうしたとき、機動隊が学生に水をかけ、追い散らしている場面が印象深く映しだされれば、見る人は学生に同情し、機動隊の乱暴な行為に怒りをおぼえることだろう。一方、学生が市街を破壊したり、機動隊を袋だたきにしているシーンが、故意ではなくとも結果として強調されれば、批判の眼は学生の暴力に対して向けられるにちがいない。
 むろん、画像はすべて事実である。ありのままの姿である。しかし、その事実が真実を余すところなく物語っているかといえば――きわめてむずかしい問題が残ると言わざるをえないのである。
3  私は、事実は大事にしたいと思う。正確な事実の把握がなければ、判断に狂いを生ずる。とともに、部分の事実に導かれる真実をもって全体の真実を見誤る愚かさも、避けねばならないと思うのである。
 たしかに、一事が万事ということもある。本源を把握するならば、たとえそれが一部分であっても、全体を洞察できよう。だが、それには、目にふれた事実が、全体に通じるものであるかどうかを判断する必要があるのである。
 一つの事実をもって早計に結論するのではなく、事実と事実を丹念につなぎあわせ、綜合の眼で真実を見極めていく努力が、とくに今日、必要ではなかろうか。
 というのも、現代社会のさまざまな対立、抗争、憎悪も結局、そうした個の事実をもって即座に全体の真実とみるところに起因しているのではないかと思うからである。家族間の反目、職場での対立、そして国家間の紛争にいたるまで、すべてそこに原因があるといってよいほどだ。
 また、一つの事実を全体の真実と見せかけるのは、それがきわめてもっともらしいものであるがゆえに、権力者がわれわれを欺くためにとる常套手段だといってもよい。賢明な民衆は、それを見抜く力をもたねばなるまい。
 そのためには、ある一つの事実に対して反対の事実があるかないかを考えるゆとりが必要なのであろう。とくに、人間に関しては、絶対的な善人とか悪人とかがいるわけではない。そこに人間の本性に対する理解と寛容の心が要求されるのではあるまいか。
 事実の奥に潜む真実――そこにどこまで迫れるか。それが人間の英知というものだろう。

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