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日蓮大聖人・池田大作

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百年の評価  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  慌しい師走の風とともに、本年もあとわずかで終わろうとしている。例年のことながら、押し詰まった年の瀬の音を聞くと、過ぎ去りゆく一年を回顧し、きたるべき新年に幸多かれと期待せずにいられぬのは人情というものであろう。
 十年一昔と、一時代前にはいわれた。しかし、膨大な情報と技術革新のなかで日一日とめまぐるしく旋転し、激動してやまぬ現代にあっては、一年前というだけで、ずいぶん昔のように感じられる。
 これが十年になり百年になると、それはすでに一つの時代、一つの歴史を形成している。価値観が逆転し、人物や事件に対する評価がまったく変わってしまうことも少なくないようだ。
 私は今、生誕百年を経る二人の思想家、文学者のことを考えている。一人は明治四年(一八七一年)生まれの幸徳秋水、もう一人は明治五年(一八七二年)生まれの樋口一葉──。ほぼ同時代に生まれながら、性別だけでなく思想的にも実践面でもまったく異なってみえる二人だが、共通のものとして、私は彼らの思索と活動の原点が、つねに民衆であり庶民にあったことを指摘したいと思うのである。
 もちろん、歴史の坩堝のなかでしか生きられない人間のつねとして、その思想と行動には、今日からみれば、いろいろ矛盾も限界もあり、時には誤謬もあったにちがいない。一葉の場合には、とくに女性という封建制の桎梏により縛られた立場でもあり、また物事を論理的につきつめて分析するというより、文学者として感性的に表現するという性情であったためもあって、その時代、社会への批判は直截ではなく、ある意味ではきわめて微温湯的なものであったかもしれない。
 しかし、たとえば『たけくらべ』にみられるように、澄んだ爽やかな抒情のなかに、明治という封建制の残滓を色濃くとどめる時代の矛盾と、みずみずしい自我のめざめを鮮やかに映しだした作品に、私は一葉の限界性を指摘するよりも、はるかにその抜きんでた先駆性を発見したいのである。彼女は落魄した旧士族の家に生まれ、下層庶民のなかで辛労な生活と対決しながら、女性として、人間としての内面から奔しる響声を作品に結晶させたのである。私には、二十四歳で夭折したこの女流作家の生涯に、たとえ短くとも自己の生命を燃焼しつくして生きた者だけの秘める、ある厳粛さが感じられてならない。
2  幸徳秋水の社会批判はより苛烈であり徹底的であった。社会体制そのものを視野の真正面に据え、国家機構の土台石に衝突して、彼は斃れた。今では権力によるデッチ上げともいわれている大逆事件の真相について私は詳らかにしないが、彼が心情として過激でアナーキーな行動を是認する方向へ傾斜していた軌跡はたしかにあるようだ。しかし、その波乱、激闘の連続の生涯には、社会の矛盾と不正とに向かって人間の真実を昂然として貫いた情熱があった。
 それは、とくに「平民新聞」を舞台にして展開された、有名な彼の「非戦論」にあらわれている。日露開戦論の滔々たる奔流のなかで「独り戦争防止を絶叫するは、隻手江河を支うるよりも難きは、吾人之を知る、而も吾人は真理正義の命ずる所に従って、信ずる所を言わざる可らず。絶叫せざる可らず」(『幸徳秋水全集』第五巻所収、明治文献)と言い、ついに開戦されたあとも「吾人は戦争既に来るの今日以後と雖も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし」(前出)と主張してはばからなかった。
 「平民新聞」は発禁になり、秋水らは起訴され、投獄されたが、その叫びはやまなかった。その真実と正義の言論は、半世紀を経た今日読んでも肺腑を鋭く衝くものがある。権力と対峙して退かぬ不屈の戦いは、ついに彼の生命を代償として求めるにいたった。刑死を眼前にしても、彼の心境は清澄であり、従容としていたという。四十年の生涯であった。
 彼の思想と行動、その評価については、論議の余地は多いだろうが、私はいかにも東洋的な匂いのするこの革命家の生涯の原点も、やはり社会の底辺に喘ぐ民衆を起点とした熱烈たる義憤だったのであろうと思う。
 秋水にしろ、一葉にしろ、それぞれの道における彼らの戦いは権力、社会の厚い壁に傷つき、挫折したようにもみえるかもしれない。しかし百年の歳月は――彼らがそのために苦闘した課題を、たしかに少数の手から多数の手へと拡げるにいたっている。同時に、まだ未解決のまま残された問題も多い。また、民衆運動の前進とともに絶えず新たな問題が生まれていることも事実である。しかし一人の力は微弱であろうとも、その戦いはかならず歴史に刻み込まれ、歴史を変え、歴史をつくっていく原動力になることを信じたい。
 今、私たちにとって大切なことは、彼らの激動の生涯における核であった民衆、庶民という原点を、いつもしっかりと凝視し、この世紀を真に人間の世紀、民衆の世紀たらしめるために、粘り強い不屈の戦いをさらに発展させ、持続させていくことではあるまいか。
3  生誕百年といえば、私どもの創価学会の創立者である牧口常三郎初代会長も、やはり明治四年の六月六日生まれである。今年はそのささやかな記念の式典を催し、またつい先月の十八日には年忌法要も行った。その生涯と事蹟――とくに教育学の分野における業績については、今ではかなりの注目を浴び、三十二歳のとき、出版された『人生地理学』が見直されているのをはじめ、やがてはライフワークというべき『価値論』もかならずや大きい波紋を投げかけていくことと思う。
 牧口常三郎の生涯は研究、教育に没頭した時期と、昭和五年、創価教育学会を設立し、教育者の訓育、実践的宗教運動に身を投じた時期とに分かれる。しかしその両期を貫いて変わらなかったものは、人間、とくに貧しい民衆に対する愛情であったと私は思っている。それは昭和十九年、軍国主義権力によって投獄され、七十三歳で獄中に逝くまで、微動もすることがなかった。 ──人間としての深き愛と正義に殉じようとした思想家には、概して不遇な人が多い。今年、生誕百五十年を迎えたドストエフスキーもその一人だった。しかし、一時まったくロシア文壇から追放されていたドストエフスキーも、最近では復活しつつあるという。それだけ、現代が人間性回復を、潮流として待望しているのだともいえよう。
 ともあれ、世紀はまことに微々とした歩調ではあるが、人間の思考は人間自身に向かわねばならぬという前進の歩みを始めたことを、尊重していきたい。

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