Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

分析と綜合  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  何千万キロと離れた星へ探査体を飛ばして、その衛星にするのは、十メートル先の自動販売機にコインを投げ入れるほどむずかしいことだといった人がいた。科学の分析の精密さ、知識の集積の華やかな成果には、素直に脱帽せざるをえなくなる。
 しかし皮肉なことは、ロケットをいくらでも正確に飛ばせるコンピューターであっても、逆にたった一メートル上から落とした紙切れが、どこに着くかも予測できないということである。あるコンピューター技術者が語っていた――。コンピューターにかければ何でもわかると考えるのは迷信にすぎない。答えが出るのは、それだけのプログラムを与えた場合のみである。「地震の予知、台風の進路、崖崩れの予測、どれ一つわかっていない。まして人の心の内などはとても……」それは、心底からの吐露であったにちがいない。
 薬品で害虫を駆除し、人工の肥料で農作物の量産を促進した人類の英知は、それがどれだけ自然の精緻な配置を狂わせ、人間の環境にどのようにはねかえってくるかを見通すこともできなかった。
 たしかに科学の精華は、研ぎすまされた刃物のように、あらゆる部門で光っている。しかし、ではその全体の成果ということになると、どこかいびつで、自然の織りなす巧まざる美の光とはほど遠いようである。
 科学は「分析」という面では、急激な進歩を遂げた。が、もう一つの「綜合」という面ではどうであろうか。それはもちろん、科学という分野だけでは解決のつかない問題であろう。しかし、そこを避けて通ったのでは、決して人間社会の円満な発達は望むべくもないのである。
 ある学者が鋭い指摘をしていたのを思い出す。
 「伝統的な科学技術の精神からいえば、たとえば分子生物学の成果というのは非常な進歩でしょう。しかし、これが生きたなま身の、そして死を免れない人間の立場からみると、これをいったい進歩といえるのかどうか」と。
 分子生物学は、現代科学の最先端の研究分野の一つといわれている。生物を分子の単位にまで分析して、その仕組みを探ろうとする学問。その成果は刮目すべきものであり、大いに活用していかねばなるまい。とともに、人間、また生物とは、その全体像から巨視的に洞察されなければならないものであると思う。
 その点、古代人は世界をじつにフランクに眺めていたようにも思われる。彼らは、この世界は、地・水・火・風の四大要素によって成り立っているとみた。そして、人間自身も同じ要素からできていると考えたようである。この発想は東洋も西洋も共通している。ただ、東洋の知恵は、これら四大に「空」を加えて五大にした。
 百を超える元素まで突きとめた現代の科学の眼からすれば、それはなんとも原始的な発想のようにみえる。だが、ここに見逃せないのは、この考え方のなかに、宇宙と人間との同質性、さらに、人間を宇宙という次元からみようとしている鋭い達観が存していることである。この東西の共通の視点は、ギリシャ文明が古くは東洋と接点をもっていたことによるのかもしれないが、不思議といわなければならない。
3  地水火風空は、現代の化学のような唯物的な発想から考えられたのではなく、人間や宇宙を調和体とみたところに立てられた考え方であろう。病気は人間におけるこれらの要素の不調和から起こり、死とは、それらが宇宙に還っていくことだと考えられた。
 人間の体の中には、大げさにいえば宇宙のあらゆる運行のリズムが刻印されているという。昼は心臓の鼓動が速まり血圧も上がる。脳細胞の動きも活発になる。夜はその逆で、血圧も低く鼓動もゆるやかになる。宇宙のリズムとの驚くべき一致である。人体の地水火風空は、大宇宙の地水火風空に呼応して、絶妙の運動をつづけているのであろうか。私の恩師はよく、十二時には寝るようにと言われたが、正鵠を射た知恵であった。 生物の体内にも地球や太陽、月などの宇宙の動きに対応したリズムがあり、時計がある──この原理をバイオリズムというそうだが、人間を一つの調和体とし、その調和のリズムを宇宙自然との関連でとらえようとする研究分野といえよう。
 古代西洋人は星座のなかに神話を見いだした。それはたんに神秘視したというよりも、神々とのかかわりを通じて、人間世界に投影された力をとらえようとしたのかもしれない。中国においては、星の運行は直接、人間の運命と結びつけられさえもした。
 宇宙自然は、複雑であり、巨大でありながら、一個の美しい生命体のごとく脈動している。そこから逃れられない人間もまた、小さな規模の宇宙のような存在なのであろう。その本源を洞察し、どのように人間生命を、そして人間社会を、完璧な調和体にしていくか――英知の眼は、この求心ともいうべき原点に向けられねばなるまい。

1
2