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日蓮大聖人・池田大作

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都市・古代と現代  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  つい先ごろの新聞に、古代エジプトについての興味深い記事が掲載されていた。有名なピラミッドのできる以前の話であるが、そんな昔に、ナイルの谷に住んでいた人々の家は、タイル張りの床、しっくいの壁など、現代の文化住宅そこのけの近代建築であったという報告である。
 これは、ピラミッドの近くの砂の中から発掘された陶器の破片に着眼した、オーストリアの考古学者によって明らかにされた調査である。年代的にいえば、五千年前のものだという。
 五千年前といえば、ピラミッドはおろか、象形文字よりも古いわけであるが、すでに、そのような太古の時代に、現代の粋な文化住宅も顔負けの家に人々が住んでいたとは、驚きである。
 六畳一間に、家族五人がすし詰めで生活している、わが東京の現状と比較すると、こと住宅に関するかぎり、五千年前とどちらが文化的であるのか――まことに皮肉な話であり、肌寒い思いがする。
 このエジプトのみならず、古代の都市には、なんとなく人間の文化的香りを漂わせているものが多い。たとえば、今から約四千五百年前と推定されている、インドのモヘンジョ・ダロである。
 「死者の墓場」という意味だそうだが、これは昔から土地の人に呼ばれてきた名で、事実は、そんな名にはふさわしくないほど、なかなかよく考えられた町であったようだ。
 まず、下水道が見事に整っている。二階からも、垂直の土管を通して錬瓦づくりの下水道に直接下水を流すことができ、その下水は小路のマンホールから大通りの主排水路に通じている。主排水路は、大人が優に立って歩ける広さをもっているという。
 さらに、ゴミの処理についても細やかな神経が行き届いていて、家々には、街路へ斜めに落ちるダスト・シュートが設けられていたそうである。それを、定期的に清掃係とでもいうべき人が、集めて回ったのではないかとさえいわれている。
 もちろん、モヘンジョ・ダロには、現代の大都市のような高層建築も林立していなければ、華やかさもない。しかし、実際、人間が住むのに、いかにも住みやすいように工夫されている。そこに、古代人の珠玉のごとき知恵が感じられるのである。
2  ところが、これが現代の都市になると、はたして英知の凝結をもって人間が住みよいように工夫されているであろうか。
 残念ながら、東京や大阪などの、わが国の都市をみるかぎり、そういった基本的な視点とはほど遠いところで、むやみと膨張している気がしてならない。
 大都市は、すでに人間の住む環境ではなくなったという暗い警告が、識者の間で発せられてから久しいが、排気ガス、物価高騰、交通戦争、住宅難……どれ一つをとってみても、人間にとって快適な生活環境とは言いがたい。
 いかに現代の都市が住みづらいか、その端的な例として、東京の“ゴミ戦争”があげられよう。
 都内のゴミは、これまでは、その三分の二を“夢の島”“新夢の島”が引き受けてきた。東京湾を埋め立てたものである。そのゴミ処理がこの秋、埋め立て地を区内にもつ江東区が投棄反対を宣言したことにより、一挙に問題化した。
 江東区ばかりではない。練馬区のゴミ焼却場周辺の住民も、これ以上ゴミに悩まされてはかなわないと反対運動を起こし、都が新たに焼却場を建設しようとしている杉並区上高井戸でも、都と住民の間に、すでに五年越しの対峙がつづいているという。
 私は、まさしく市民の生活そのものといっていい、このゴミという問題に、現代都市の病める姿を如実に見る思いがするのである。
 むろん、たかがゴミといってもバカにはできない。とにかく、都民が一日に排出する量が平均一万二千五百トン、三十六階の霞が関ビルが十三日間で一杯になってしまうという。しかも、小は厨芥から大は家具、ポンコツの自動車まで、さらには焼くと有毒ガスを生ずるプラスチックなど、種類はさまざまだ。それだけに“ゴミ戦争”の解決は容易なことではあるまい。十年前と比べて二倍半近くもゴミの量が増えたということは、大量に生産し大量に消費する、いわば“使い捨て”時代の世相をあらわに描きだしている。その間、人口の増加は、わずか一・四パーセントにすぎない。
 したがって“ゴミ戦争”をひきおこした主因の一つは、この“使い捨て”という時代の風潮にあることは疑いない。かつては、紙屑といえども、再生されてふたたび使用に供された。それが、今日、なんでも気軽に捨てるようになったのは、どしどし消費するほうが、経済を活発化するからということらしい。いま一つは、人間生活の廃棄物は、それぞれ、なんらかの形で自然に還元されていたものである。ところが、プラスチックなどの類には、帰るべき自然の故郷がない。そのあたりに、厄介なこの問題が生じている要因がありそうである。
3  それはともかく、現代の都市を論ずるのに“ゴミ戦争”を引き合いに出さざるをえないとは、なんとも侘しい気がしてならない。しかしそれは、緑の自然が日一日と失われていくのとともに、濁りくすぶる現代の地表の姿を象徴的に示していよう。人間らしい文化生活ということを考えるとき、現代都市は、なんと憂鬱な灰色の巣窟になってしまったのであろうか。
 なるほど、高層ビルは背丈を競い、地下鉄や高速道路は網の目のように張りめぐらされてはいる。昔の、いかなる文化人も、空間を幾重にも器用に交差させて利用している現代の都市の実態を、驚嘆の眼をもって見るにちがいない。
 しかし、一方で、最も生活に密着したゴミ問題に悩む人間の姿を、いったいなんとみるであろうか。私には、今日の都市が、どうも人間のためではなく、経済的欲求という、得体の知れない怪物のために膨れあがってきたようにも思われる。
 ――「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」――有名な日本国憲法第二十五条の条文である。しかし、健康で文化的な生活とは、はたして狭い間借りの部屋にいっぱい電化製品をそろえ、その残りのわずかな空間に、人間が身をよじって横たわっている姿なのであろうか。
 現代の都市問題を考えるとき、文化的生活という考え方について、人間はもう一度見直す時期にきているのではないだろうか。

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