Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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平和の砦  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  琉球政府の発行した、『沖縄県史』のなかに「沖縄戦記録」という巻がある。
 二十数万の生命が失われた、あの沖縄戦の模様を、凄絶な体験をくぐった名もなき千人の人々が綴った衝撃の記録である。千ページを超す、この大部の書物のなかには、とくに際立った反戦の理念も、告発のイデオロギーも、語られてはいない。
 むしろ、驚くほどの淡々とした口調で、事実をありのまま記しているにすぎない。それが、装いのないものだけに、かえって読む人の眼瞼の裏を熱くし、心を鮮烈にとらえずにはおかない。私も読みながら、しばし、抑えがたき怒りと憤りを禁じえなかった。
 とくに、当時三十九歳であったという新城のある農婦の記録は、痛ましい。
 ――米軍の艦砲射撃が始まったころ、彼女は家族とともに、近くの壕に避難していたが、戦火に追われ、果てしない逃避行をつづける。その間に、家族は次々と斃れていく。まず十八歳になる娘が、看護婦の仕事に行き、川で顔を洗っているときに破片で腰をやられる。娘は三日後に死んだ。彼女の妹(三十四歳)も腰をやられ、二時間後に死んだ。
 「……私はいちいち見ることもできないくらい、それどころではなかったんです。私の四女(五歳)が、手首もやられ腹もやられて内臓がとび出していたんですよ。その子は即死でした。私の母が大騒ぎしていましたから、私は錯覚して、おばあちゃんが足で子供をふんづけて、内臓までとび出させているよ、と叫んだら、母は自分はそんなことはしていないよ、と言っていました」
 彼女は砲弾のなかを、さらに追われて逃げる。
 「真栄平の空家に避難しているとき、また、艦砲だったか、破片に、こんどは私がやられましたよ。私は、一歳半の子を抱いていましたが、その手首も、右腕も、額も、胸も、切り裂かれて怪我して、またツトム(次男)は頭の上に掠り傷を受け、爆風で倒れましたよ。そして気がついたら、しゅうとめさんは爆風で即死していましたよ……」
 「……新垣では叔母さんが亡くなられてですね。あっちでは、砲弾と爆風が激しく、もう人間の肉がどこからともなくちぎれて飛んできましたよ。死体も一ぱいころがっていましたよ……」
 一歳半の子は、まもなく栄養失調で死んだ。それらを含め、彼女はこの戦闘でじつに十人に及ぶ肉親を犠牲にしている。恐るべき殺戮である。
 しかし、こうした彼女の体験は、決して例外的なものではなかった。本書に収められた千人もの人が、ほぼ同じような体験を語っているからだ。
 否、おそらく、この書に登場していない人のなかにも、もっと残酷な運命に翻弄された人がいるであろう。事実、記録の収集過程で「わたくしに戦争の話をさせると、狂人になって、あなた方に乱暴を働く結果も生じる惧れがあります」と言って、話を拒絶した婦人もあったといわれる。
 なんと惨い、悲痛な爪痕であろうか。戦争という名の、あまりにも愚劣な、残忍な破壊作業──その泥と炎のなかに、苦しみ、呻き、嘆くのは、いつも無名の民衆なのである。
 この無告の庶民の叫びを、私は、何にもまして尊重したい。その声にこそ、いかなる壮大な平和論をも超える真実の響きがあるからだ。反戦平和の起点は、まさにそこにある。
 しかし、残念ながら今日まで、人間は、この当然の原点を、それがあまりにも平凡であるためか、まったく無視し忘れ去ってきた。だからこそ、この沖縄戦のような惨禍は、いまだ、いたるところにその臭気を断たないのである。
 この二十数年をみただけでも、アウシュビッツ、広島、長崎、朝鮮、ベトナム、東パキスタン──と数えてくると、歴史は人類の犯罪と愚行の連鎖のようにも思われてくる。
 「人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることを沁々と思う。人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐しきかな、あさましきかな人類よ、猿の親類よ」
 ――若き戦没学徒の手記を集めた、『きけ わだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編、岩波書店)の一節は、これに対する痛烈な告発といってよい。
 しかし、こうした人間への愛と正義に対する真摯なヒューマニズムは、国際政治の大勢にあっては、きわめて無力で劣勢である。世界の囂々たる反対と抗議の世論を押しのけ、アムチトカの核実験は強行された。
 なぜ、このような人間の獣性が、まかり通るのか。言うまでもなく、国家の論理が、それを是認し、正当化しているからである。だが、われわれはどんな微弱に思われようとも、一人一人の人間の心の奥深くに、戦争を否定しきる平和の要塞を構築しなければならない。それ以外に悲しき人間の業を転換しゆく道はないからである。
 このような呼びかけは、いかにも複雑な政治の現実をわきまえぬ、感傷と嗤われるかもしれない。しかし、当然のことを、当然のあるべき姿に向けることが感傷というのであれば、私は感傷と言われようと、一向にかまわない。
 今、最も大切なことは、たとえば、この「沖縄戦記録」を読んで、だれしもが感ぜずにはいられない痛みを、どう拡大し、連帯の叫びとして結晶させていくかということだと信ずるからである。
2  一昔前、わが国では“核アレルギー”という用語が流行した。核に対して、日本人は神経質でありすぎるという意味であろう。
 しかし、もしわれわれが戦争に対してセンシティブでなく、核にも図太い免疫体質をもつようであれば、まさにその瞬間こそ、破滅の危機といわねばならない。その危機の兆候は、度重なる核実験とともに、暗いかげりをもって、忍びよりつつあるのだ。
 私は、数度沖縄を訪れたことがある。南国特有の紺碧の空、美しい珊瑚の海、眩ゆい陽光――沖縄の自然は、まことに鮮やかであった。
 その美しい自然に囲まれた人間の世界は、対照的に、なんと重苦しかったことか。現代世界の権力組織が演出する、あらゆる作為と策略が人間社会をおおっているかのようであった。かつて沖縄のこの美しい島を地獄図と化した怪獣は、今も、不気味に――否、いっそうの気味悪さをたたえて人々のうえに君臨しているように思われた。

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