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日蓮大聖人・池田大作

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豊かということ  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  東京・八王子市に始まったノーカー運動は今や全国十六都県で実施されようとしている。飽和状態となった車の洪水から、人間のために道路を解放しようとする試みが、一酸化炭素の減少作戦と相まって喝采を浴びているのであろう。
 昨年から行われている歩行者天国といい、このノーカー運動といい、日一日と人間らしさが失われていく社会に対し、地歩を回復しようとする人間の懸命な抵抗にほかならない。
 ところで、こうしたレジスタンスは一見、文明の進歩とは逆の方向で展開されているように思われる。しかし、それがかえって人気を呼んでいるところに、現代という時代の皮肉な状況がのぞいているようである。
 たしか産業革命の当初、機械取り壊しのラッダイツ運動というものがあった。科学技術の発達で、それまで人間の手で行われてきた仕事が機械に取り上げられ、怒った労働者が怨念を機械に向けた打ち壊し運動であった。そのとき多くの歴史家は、これを歴史の進歩と逆行する空しい抵抗として評価したものだ。
 ところが現代にあっては、第二のラッダイツ運動にも似た動きが、むしろ歴史の進歩した姿として受け止められようとしている。それだけ今の人間が、あまりにも発達しすぎた物質的環境に、身動きすらとれなくなってしまったことを意味するものであろう。
 ある人が、現代の文明社会を評して、あばら骨の見える体に、だぶだぶの衣服を着せたに等しいと指摘していたことがある。まさに言い得て妙であるが、やせた体に肉をつけることができないなら、せめて体にマッチする服を着るのが健全な知恵というものであり、進歩的英知ということなのかもしれない。
 もっとも、人間自身がどこまでやせており、物質文明の肥りぐあいがどの程度か定かではない。車などは今の日本の狭い国土からいえば、明らかに、必要以上に多くなっていることはわかるが、さりとてその必要数がどれだけかの判断もつきかねる。しかし、こうした運動によって、これまで忘却の彼方へ置き去りにしてきたことが、あらためてクローズアップされれば、非常に大きな意味がある。
 事実、われわれはこれらの運動によって、従来忘れていた貴重なものを、刹那でも取り戻しているのである。それは、人間が歩くという権利を回復したことである。大都会に住む人にとって、ここ数年、白昼、大手を振って大通りを闊歩する楽しみを、ついぞ満喫したことがあったであろうか。
2  以前「中国の民衆」という記録映画を見たことがあった。そのフィルムには文革前後の中国が収められていたが、見ているうちに気がついたのは、車が目立って少ないことである。北京の大通りもほとんどは歩行者と自転車であった。交通機関の発達が遅れているといえばそれまでである。しかし私には、悠々と歩く人々の表情に、言いようのない長閑な平和さが感じられた。
 たしかにそれは、文明の進展とともに、われわれが一様に忘れていた味であった。しかし、よくよく考えてみれば、否、考えるまでもなく、そんなことは人間にとって当然のことであり、最も本来の自然な姿にほかならない。
 その当然のことを、今、われわれは得難い味のようにかみしめている。こんなことが何故に起こってきたのか。
 その一つに、現在の生活様式が、便利さを第一の価値として優先してきたことがあげられるといってよい。そこには、便利なものが豊富にあれば、それ自体で「豊かな生活」であるという、きわめて安易なわれわれの考え方がある。
 たしかに現代文明のさまざまな機械は、生活を簡便化し、合理化し、スピード化してくれる。その意味でそれは、人間生活にプラスの価値を与えていることは、言うまでもない。
 だが、それがはたして人間が求める「豊かさ」の絶対的な尺度かというと、決してそうではなかろう。便利、簡便といった功利からはほど遠い次元で「豊かさ」を感ずることが多いのである。
 たとえば長年月をかけて、苦闘と努力を積み重ねてきた労作業が見事に結実したときの喜び、充実感。それは人間として最も「豊かさ」を感ずる瞬間であろう。事実、人間が人間として「豊かさ」をかみしめるのは、目先の簡便さなどではなく、自分自身が額に汗を流し、全精魂を傾けた労働にあるときが多い。
 便利なものを排斥すべきではない。むしろ大いに活用すべきものだ。しかし人間は、便利さの恩恵にいったん浴してしまうと、みずから苦労して収穫する回り道を避けようとしはじめるものだ。かくして、外形だけ豊かで便利な調度に囲まれながら、心の豊かさを忘れた貧弱な人間だけがいる寂寞たる光景ができあがる。大地を踏みしめて歩き、手にハンマーを持つことを忘れた人間、あふれる情報洪水にのめりこみ、思索という、存在の第一義さえ忘れた人間──未来人は、弱々しい手足と空虚な頭脳をもった哀れな姿に堕するのであろうか。
3  「便利」な交通機関の極致ともいうべき東海道新幹線では、東京から大阪まで三時間である。昔はここを五十三の宿場が結んでいた。忙しい現代人からすれば、道中に要する時間たるや、もったいないかぎりかもしれない。しかし、昔の人々とて道中を無駄に過ごしたわけではあるまい。駕篭に、あるいは馬の背に揺られながら、また杖を持って歩きながら、景色を楽しみ、人の世の変化相を見聞し、和歌や俳句をものした人も多かったにちがいない。新幹線に乗って旅を急ぐ現代人は、そこに何を見、何を創造しているであろうか。
 考えようによっては、一日は二十四時間、どんな乗り物を使って、どれだけ動きまわったとしても、これだけは変わりがない。いうなれば、どこにどうしていようとも、自己の「存在」だけは厳としてある。その自己をどう充実させるかが一日の充実につながり、ひいては、豊かな人生、社会をわが掌中にするかの鍵となるのではあるまいか。便利な環境自体が豊かなのではなく、その便利さをどう自己の人生の充実へと使いこなしていくかの知恵が、豊かさを形成するものだと思う。
4  私の周りにはいろいろな人がいる。同じ職場、同じような家庭をもっていても、豊かさは人それぞれに違う。質素な衣装を身につけていても、馥郁とした豊かさが滲みでている人もいる。豊かさが外形にあるのではなく、その人の内面の世界の深さと広がりにあるからなのだろう。「種子島」に驚き、「黒船」に眠りをさまされた日本人は、科学の進んだ西欧文化が豊かにみえ、不幸にも、それ以外に豊かさはないものと錯覚してしまったのであろう。その必然の結果として、繁栄だけを求めるアニマルに堕してしまったのかもしれない。
 豊かさとは、一つの物差しで計れるものではないと思う。多種多様に豊かさを把握する時代がきていることを、ノーカー運動は教えてくれているようだ。

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