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日蓮大聖人・池田大作

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折々の断想  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  「愛のために死す」という映画が、今、たいへんな評判であるようだ。残念ながら、近ごろは映画を観る機会も、滅多にない。――これは、若い友人たちから聞いた話である。
 この映画は、一九六八年、フランスの五月革命の真っ只中で実際に起こった、ある事件をもとにしたものだという。それは、十七歳の高校生と三十二歳の女教師との恋の物語である。その情熱的な進行は、あらゆる制圧の垣根を乗り越えるが――ついに法廷で裁かれる身となった。心に深い傷を負った女教師は、最後に自殺を遂げて幕を閉じる。
 恋の都、パリから連想されるフランスが、じつは非常に古い、固い秩序で支えられていることは、この事件にもよくあらわれている。映画の制作意図には、そういう社会の体質を厳しく指弾するということもあったらしい。この映画が、とくに若い人たちの間で大きな人気を集めているのは、二人の男女の愛に賭けた生き方が純粋な感動を与えるからなのだろう。
 現代の若者は一見ドライで、何かに命を賭けるなどというと「ナンセンス!」と一笑に付しかねないと思われていた。しかし、その心の奥に、いささか古めかしい無償の殉愛に共鳴する琴線が秘められているのだ。私は、若い世代の、この一途な愛に対する憧憬にも似た賛美のなかに、人間が人間として生きるかぎり決して変わることのない、一つの切実な希求の声を聞く思いがした。
2  愛といえば、ベストセラーになった曾野綾子氏の『誰のために愛するか』では「その人のために死ねるか」ということが、愛の定義とされていた。純愛悲恋の物語は、文学の世界では古くからテーマになっている。近松の『心中天網島』などは、社会の掟に縛られて、その愛を完結するためには死を選ぶしかなかった薄倖な恋人たちの姿が描かれている。こうした物語の感動は、圧迫が強ければ強いほど、稲妻の閃くような生命の迸りが死を超える愛として結晶するからにちがいない。それはまた、性の享楽や機械化された乾いた社会では、ついぞ忘れられてしまった、死を賭してまでも己の生命を燃焼させることへの密かな憧憬を人々に蘇らせる何かがあるからである。
 死を賭けた生き方――それが生きるということの充実感を自覚させる発条であることは確かである。
 ある有名な作家の話を聞いて、私は感銘をうけた。その作家は戦時中に少年時代を過ごし、いつか暗い戦場に赴くことを心深く覚悟していた。それほど死への恐怖感はなかったが、死への予感がたまたま閃光のようによぎるとき、残りの生のかけがえなさを沁々と想ってやまなかった。戦後、その青春の記憶が核となって、その厳粛な生を追究してみたいという願いから、この人は文学の道へ進んだという。
 戦前の多くの若者たちにとって、国は、そのために自己の生命を燃焼させるべきものであった。事実、それによって多くの青春の生命が傷ましくも散っていったのである。
 戦後になって、その反動から、何かに生命を賭して生きること自体が時代錯誤のように考えられるようになった。
 だが現実は、そうした「戦争を知らない若者」たちも、空虚な日々の生活のなかで必死に生を模索しようとしている。この焦燥感のあらわれが、一方では、いっさいの体制文化を拒否したヒッピー的な生き方や、他方では、反体制の過激な抵抗として噴射しているともいえよう。
 最近、ある新聞で、死刑囚と無期囚を対比した、こんな記事を読んだ。──死刑囚が異常なほど喜怒哀楽の情が鮮烈で、鋭い感受性を示すのに対し、無期囚のほとんどは、しだいに感情の起伏が乏しくなり、感動を忘れ、卑屈なくらい従順で個性を失っている、というのである。
 その記事は、現代の管理社会に生きる人間の姿が、この無期囚に類似していることを指摘して結ばれていた。たしかに現代の文明社会は、あまりにも管理化され、人々は管理された自由のなかで、生きいきした生の実感を見失っている。一年前、三島由紀夫氏の凄絶な自死がひきおこした衝撃も、自己の信条に殉ずる極端なまでの果敢な行動があったからである。その非合理の叫喚の背後には、死も生もみつめることのできなくなった現代への挑戦があったともいわれる。
 なるほど死の扉の前に立った人間は、余命いくばくもない自己の生に強烈な反応を示すことは事実である。芥川龍之介が、自殺の直前に「自然は一際美しい。それは自分の末期の眼に映じるからだ」という意味のことを記していたのを思い出す。
3  しかし、私は死によって生を自覚させようという考え方に、生のとらえかたの浅さがあるように思えてならない。
 はたして人間は、死という絶壁を意識しなければ生を自覚できないのであろうか。私はそこに、生と死をまだ相対的に眺めている人生観があるように思う。
 ヨーロッパ統合の提唱者、R・E・クーデンホーフ・カレルギー伯と対談したとき、氏が洩らした興味深い言葉があった。――東洋と西洋とでは、生死の問題に対する考え方に大きな相違がある。東洋では、生と死はいわば本のなかの一ページのようなもので一ページが終わると次のページがあるが、西洋では、人生とは一冊の本のように、初めと終わりのあるものと考えられている――というのであった。これは東西の死生観を表現した巧みな比喩であると思う。
 生命とは、生と死とを繰り返しつつ永遠に持続していくもの――というのが東洋の生命観なのである。この生死を超えたところに自己の目的と使命を求め、己が生を賭けていく。そこに尽きない生命の充実感が生まれていくのではないだろうか。つまり、生きるために努力していた状態から、この生を何のために燃やしていくかという姿勢に一歩脱皮することである。
 人は、それぞれに独自な生の主題ともいうべきものを発見していこうと努力しているはずだ。いつ死が訪れても悔いないという、現在刹那の生への真摯な姿勢が、その人生を決定するのである。
 昨日は国際反戦デーであった。今朝の新聞には、若いエネルギーが、また空しくコンクリートにぶつかって拡散し、挫折したことが報じられている。私の網膜に、パリの五月革命のイメージと重なりながら、傷つき倒れる青年たちの顔が、痛ましく浮かんで去らない。

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