Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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地球砂漠  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  秋の魚はサンマである。
 「秋刀魚」の名の示すように、細身の銀色に光る姿は刀にも似ているが、それでいて、どことなく剽軽な愛すべき風情がこの魚にはある。そんなところが庶民の感情に相通ずるものがあるのか、ともかくサンマは日本の味覚の秋を独占してきたといってよい。
 お勝手で黒々とした煙が上がり、油のしたたり焼ける音を聞くと、途端に食欲がもりもりわいて、秋の夕べの味を満喫した人も少なくないであろう。サンマはいつも、ささやかな庶民の食卓に、高いカロリーとともに、豊かな季節の香りを送り込んでくれたものだ。
 ところが近ごろは、そのサンマが、庶民の財布では、簡単に手の届く領域には住まなくなってしまった。最近の諷刺漫画に、こんな傑作が出ていた。
 それは――現代のあるサラリーマンが、家路につき、わが家の食卓に向かおうとしたとき、なんとそこにサンマ君がさっそうと登場しているではないか。これを見た彼は、思わず襟を正し、脱ぎかけの背広を着直し、ネクタイを締め直して厳粛な気持ちで対面している──そんな一コマであった。
 それはともあれ、かつての懐かしい庶民の友の味は、今や、めったにありつけない山海の珍味になってしまったようである。
 その一つの大きな原因として、いつもながら政治の貧困があげられる。サンマが総体的に減っているとはいえ、漁村などでは、まだまだ安い値段で買えるという。それが、ひとたび流通機構という煩雑なトンネルを潜ると、一夜にして高騰してしまったということも少なくないようだ。一日も早く国民本位の経済システムをつくりあげてほしいものだ。
 ところが高くなったサンマのもう一つの要因に乱獲がある。これにはなかなか厄介な問題が潜んでいる。というのは、サンマにかぎらず、それは現代の文明のあらゆるところで共通する問題点をはらんでいるからである。
 美味なるものや役に立つものがあれば、あたりかまわず自分の支配下におきたがる、バランスを忘れた利己主義という人間の欲望の追求。その結果、人間はみずからの手で破壊し汚染に努めてきた自然という環境から、厳しいシッペ返しをうけている。
 つい先ごろの新聞に、わが国でも有数の野鳥の楽園であった東京湾の一角で、痛ましくも鷺の一群が次々と死んでいる実態が報道されていた。原因は、人間が使った農薬に含まれる多量のディルドリンといわれる。
 鳥は生物のなかでも、最も敏感に環境の変化に影響される生物として有名である。それだけに、われわれの住む生活環境が、すでに鳥には適さなくなっているというこの事実は、人類の未来を暗示するものとして衝撃をもってみられたものだ。
 このままでいけば、あるいは人間たちは、宇宙の涯で、ただ独り愚かにも叛逆する孤独な存在になりかねない。否、人間がみずからの思慮なき欲望に翻弄されたままでいるとするならば、みずからの生存環境すら死滅させてしまうことにならないだろうか。
2  数年前、私は飛行機の窓からアメリカの大平原を眺望したことがある。
 それはまことに渺々たる広野であった。一種の砂漠であるが、ゴビやサハラのような砂地ではなく、まったくの荒れ地である。それが今でも鮮烈な映像となって網膜に焼き付いているのは、行けども行けども赤味を帯びた原野が、はるか地平の彼方へまで広がっている、その広大さであった。
 そのとき私は、雄大な自然の本姿に目を奪われる思いがしたが、後日、この大赤土がかつては青々とした草木を豊かに茂らせていた沃野であったことを聞き驚いたのだ。さらに、この砂漠ができるまでの経過を知らされたとき、一瞬慄然とせざるをえなかった。
 アメリカの大平原は昔、豊富な草木と野牛やリス、オオカミ、プレイリードッグたちの楽園だったという。野牛やリスは草木を食み、肉食のオオカミは彼らを追った。穴掘りの得意なプレイリードッグは、草原を巧まずして耕し、原住のインディアンは野牛を捕獲して、平和な暮らしを営んでいたという。
 ところが近代に入り、白人が文明の利器、銃を持って進出しはじめて以来、この自然の楽園は一変してしまった。皮をとるために野牛を殺戮し、家畜を守り増やすためにオオカミを殺し、プレイリードッグたちを駆逐した。
 今や敵のいなくなった牛や羊などの家畜や昆虫は、そこでわが世の春を謳歌したにちがいない。そして平原では、彼らの大繁殖が始まった。
 ところが、自然の摂理の厳しさか、繁殖しすぎた彼らは、食物を求めて草木を食べ尽くし、根までも掘り起こして漁ってしまった。プレイリードッグのいない大地は硬くなり、水分さえ吸収できなくなってしまった。
 その結果は歴然としている。ふさふさと生い茂った緑の大平原は、みるみるうちに荒れはて、ついには一本の草木もなくなった。生きる糧としてきた野牛を失ったインディアンも衰退する以外にない。そして家畜や昆虫の束の間の繁栄のあとには、もはや回復の余地のまったくない、ただ荒寥とした不毛の砂漠だけが、限りなく広がっていた――。
 躍々とした生命の輝きを秘めていた大平原は、人間の愚かさを嘆きながら、ついに死んでしまったのかもしれない。このアメリカの砂漠の生成過程は、私にはなぜか人類がこれから踏み入ろうとしている未来への道程にも感じられてならない。いつまでも調和を考えないで――欲望にのみ耽っていたのでは草の根まで食い尽くした昆虫たちのように、地上のあらゆる資源を掘り尽くし、やがては地表のすべてを茫漠たる砂漠に化してしまうにちがいない。
 もとより、人間から旺盛な欲望を除けば、たんに自然に盲従するだけの存在になっていたことだろう。また、これまでの歴史をみたとき、人間は、ただやみくもに本能のおもむくまま自然や環境を破壊したというものでもなかろう。そこには飢えと渇きから脱出するための必死の対決があったことは疑う余地はない。――その欲望のゆえに、今日のような進歩と発展をみたことも、まぎれもない事実ではある。
 しかし私はここで、バランスを忘れた人間の欲望が、バランスの欠けた奇形の繁栄をつくっている現実を謙虚に反省したいのだ。それにはまず人間自身が、あらゆる生物で構成されているピラミッドの頂点に立っているという傲慢な考えを改めねばならない。宇宙自然の膨大な生命群は、それぞれ微妙な全体の連関の環の中で成り立っている。人間もその壮大な見事な環をつくる一員である。ゆえに人類は、この自然を友とする、本来の自己の存在の原点をもう一度かみしめる時期を迎えた、といっても決して過言ではあるまい。

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