Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東と西  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  秋が深い。日一日と、夜が長く感じられるようになった。ふと仰ぎ見る月の光が、心なしか、哀しくも美しい。一日の激務から解放されて、物思いに耽ることもしばしばである。
 秋は、静思の季節といえようか。
 わが国では、秋というと、暮れゆかんとするものへの哀傷、寂寥の感慨を託すことが多い。もののあわれを尊ぶ日本的情趣の詩人たちにとって、この秋は、こよなき詩情の泉であった。多くの文人が、名月に肝胆を照らし、木々の紅葉に心を投射し、可憐な虫の音に胸を痛めて、幾多の傑作を謳いあげた。
  月みれば
    ちゞにものこそ
      かなしけれ 
    わが身ひとつの
      秋にはあらねど
 こういった風情は、隣国の中国においても、一向、変わりない。皓々と澄みわたる月の夜を詠じた李白の名句は、今でも人口に膾炙されている。
  牀前 月光を看る
  疑うらくは是れ 地上の霜かと
  頭を挙げて 山月を望み
  頭を低れて 故郷を思う
 このように自然をいつくしむのは、山川草木にも「こころ」があり、生命が息づいていることを直観した東洋人の精神的伝統が、そうさせているのかもしれない。人間も、その自然という生命の律動の環の中で、転変を繰り返す宿命的な存在であり、人間はこの自然と交遊することによって、みずからの真相を初めてつかみとる――東洋人の発想のなかには、いつも、そうした自然との対話があり、そのなかから、幽玄な詩が生まれ、淡泊な山水画が描き出されていった。
 ところで、これが西洋になると、だいぶ趣が変わってくる。想いに耽りながら、ものいわぬ風物に、高情遠意を託すという東洋的な好尚は、意外に少ない。
 もちろん、西洋にあっても、春になれば、生命の躍動美を感じ、冬になれば木枯らしの厳しさに肌をたてる心情に、差異はない。それは、自然とともにしか生きることのできない人間本然の帰趨であろう。
 しかし、その場合でも、西洋では、自然の姿、春夏秋冬の変化は、人間が描く造形の対象、写実の対象として扱われる傾向が強いといわれる。そこでは、どこまでも、人間中心的であり、自然風物は、人間が表現する対象として、言わば人間の外側に、対立的に存在しているといえよう。
2  東洋と西洋の、この「物とこころ」の対比について、長年、東西の美術史を研究されていた京大名誉教授の原随園氏が、西欧のルネサンス期の巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を通し、いみじくも鋭い指摘をされていたことを想い出す。
 「レオナルドは人間を写すこと、年寄りや子供、怒ったもの、絶望したもの、それをどう表現したらよいかをこまごまと考えている。見る人をひきつけるように、どうしたらよいか、その教えは写実であった。もちろん描こうとする人物に画家は同化しなければならないとか、秋冬の季節に応じて物をかくべきだとか、風雨山水のかき方に、光や陰や色について細心の観察を伝えてはいる。科学的、分析的であるが、写されたものから、人間の心の奥に何を感じ、何を思うべきかを語ってはいない」
 そして、さらに教授は――
 「大まかにいって、東西の美術についての重心の置き方に違いがある。一方は精密に計算することを教え、一方は精神に直行することを教えているかのように思われる」
 と結んでおられる。
 私も、東洋と西洋が、たんなる地球上の地域の区分という横の相違だけではなく、縦の長い時間のなかに、まったく、それぞれ独自の文化圏をつくりあげてきたその背景に、この「物とこころ」の考え方の違いがあるように思えてならない。
 それは、たんに、美的感覚の問題だけではないようだ。最近、医学の世界における東西の違いが、関心を集めはじめている。
 好例が、中国のハリ麻酔である。歴史的なニクソン訪中決定のニュースに世界が沸き立ったあと、俄にクローズアップされた中国の姿のなかで、数千年来の重畳たる風雪から編みだされた中国古来の漢方医学の姿が紹介され、驚異の眼で、再評価を迫られている。
 何本かの針を孔穴に刺し込むだけで、西洋医学では不可能とされてきた、正常な意識のままでの麻酔が、現実に行われているという事実。また胃痙攣などの発作的な激痛を、一見、局部と無関係にみえる太股のツボに、針で強い刺激を与えることにより、瞬時に発作を止めたという療法。さらには、皮膚病をも内服薬によって見事に克服している数々の実例……それらのどれ一つをとってみても、西洋医学の思考の範疇を、はるかに乗り越えているようだ。
 そして、この漢方医学では、病気や怪我があっても、その悪い局部だけではなく、全身を診て、治療を進めるというのである。ある意味では、近代医学が当然として疑わなかった通念を、革命的に転換するものといえるであろう。
 それは、まったく東洋の「物とこころ」の哲学の土壌で生まれた、独創的な医術なのである。
3  つい先ごろ、この東洋の医術について、ある少壮の医学者と語ったときのことだが、彼の説明を聞くと、漢方医学では、人間の健康を、つねに十二カ月の季節の動きや宇宙全体の現象との関係においてとらえるとともに、人体構造についても、内部と体表との微妙な連関を考察しながら治療を進めるというのである。
 つまり、西洋医学は、人体を諸々の器官、組織に分解し、それを組み合わせたものと考え、分析的である。それに対し、東洋医学にあっては、人体とは、自然、宇宙の現象とともに、つねに変動するものであり、全体が複雑微妙に関連する総体としてつかんでいるというわけである。
 してみると、漢方医学が示す数多の驚異の事実も、その裏に、包括的な生命の哲理が潜んでいることがうなずけるであろう。
 「物とこころ」――西方は、それを対立的にとらえることにより、冷徹な合理主義と強靱な人間個性の醒起をもたらし、世界と自然を人間の支配の鎖につなごうとした。一方、東方は、それとの巧まざる連環に着目し、幽遠な大宇宙とともに静かに居座し、壮大にして悠美な自然的瞑想の世界をつくりだした。
 そして歴史は、ついに東西相まみえることなく、西方が東方を圧する形で近代の栄光と悲惨を一身に体現した。今、二十世紀の後半、その文明が病んでいる。この時にあたり、この文明病を克服する一つの鍵が、この「物とこころ」の正視にあると思うのは、私一人ではあるまい。

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