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日蓮大聖人・池田大作

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きのうきょう  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  古いものを大事にする――否、たんに大切にするというだけでなく、現実に使い生かしていくということは、経済的な吝嗇などといった説明ですませられるべき問題ではない。家具や建物にしても、街そのものにせよ、さらには自然そのものにしても、それ自体は物質であり、経済的価値に置き換えることもできよう。だが、そこに人間の生活の営みがかかわり、歴史が刻み込まれると、もはやたんなる物質ではなく、経済的価値のみでは割り切れない存在となる。
 古い時代のものを、今も大切に使うという、こうしたフランス人やイギリス人の姿勢を支えているのは、この過去の歴史をどう受け止めるかという、筋金入りの背骨なのではあるまいか。さらに言えば、その物体にまつわる、過去の人間の営みに対する敬虔な気構えといったものが、そこにあるようである。これは、当然、現代の人々の生き方という面に、強い規制力をもってあらわれる。
 現今のイギリスは、ある意味で、この歴史が、必要以上の重みを加え、そのため、身動きがとりにくくなっている状態なのかもしれない。とすれば、もちろん、これは、重ければ重いほどいいというものではなく、調和がとれていなければならないのであろう。
 しかし、少なくとも、現代の日本人にとっては、この点、いくら強調しても、しすぎるということはないようである。幾多の文化的、歴史的価値をもつ貴重な遺産が、そうした面はまったく考慮の外において、次々と破壊され、台なしにされている。人間の遺した文化遺産ばかりではない。自然が、おそらく何千年、何万年の歳月をかけて作り上げ、営んできた森林や湖水・海水中の生態系も、無残にぶち壊されてしまっている。
 日本人も、かつては、そうした古きものに畏敬の念を寄せ、大切に保存しようとする習慣をもっていたらしい。文化的遺産には、昔それに関係した人々の霊が宿っていると伝えたり、原始林には山の神が、湖には水神が住んでおり、これに手を加えると祟りがあるなどといわれてきた。それは、今になってみると、先人の巧みな智恵であったように思われる。
 近代に入って、怨霊や神の祟りといったものは、臆病な先祖たちのデッチあげた“迷信”であるということになり、目先の利益の追求のため、遠慮会釈のない破壊が加えられるにいたった。原生林は切り払われて、効率のよい杉や桧が植えられ、湖水は産業の発達で汚水の溜りと化したのである。
 そして、その結果――古人の伝えた、祟りの伝説は、どうやら、もっと生々しく、恐ろしい証拠をもって、現実化しようとしている。湖や川や海の水を汚したことは、イタイイタイ病や水俣病などの病気となって住民のうえにふりかかっている。山林の伐採は、山津波や洪水をひきおこす原因となった。
 また、古くからの文化財の破壊は、人間社会のなかに、世代の断絶などにみられる、相互不信、人間疎外の砂漠を広げている。いっさいを物質的、経済的観点からのみ割り切り、精神的、人間的要素を捨象した報いが、次の世代をそうした思考法に追いやり、深刻なシッペ返しを受けているといったら言いすぎだろうか。
 昔の人々が伝えた、霊や神々に対する畏敬の心とは、今日の言葉でいえば、物質の背後にある精神的、人間的なものへの敬意であり、自然界のもつ力とリズムへの調和ということになろう。これは、厳しい「祟り」を受けてみて初めて気づいたわけであるが、これもまた“霊”や“神々”という古い言い伝えを大切にし、謙虚にその意味を考えてみる姿勢があれば、現代人は、これを生かすことができたかもしれない。
3  明治以後、日本人は、ヨーロッパから文明を摂取し、たしかに近代文明社会を築き上げた。だが、日本人が学んだものは、文化の結果としての技術や物質だけで、文化の原動因である、人間としての姿勢やモラルは忘れていたようである。欧米に追い着き、追い越すことを願うあまり、優秀なエンジンは仕入れたが、ブレーキを無視していたといえるかもしれない。
 それは、より自己自身に密着したものであり、詮ずるところ、自身の内から生みだしていかなければならないものであろうが、そのためにも、ヨーロッパは、まだまだ、日本にとって学ぶべき多くのものをもっているといわなければならないようだ。

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