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日蓮大聖人・池田大作

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乞眼の婆羅門  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
4  まことに古典の説くところは、含蓄に富んでいる。私も、恩師とともに戦った十年間は、厳愛につつまれてほとんど叱られ通しの日々月々であった。振り返ってみるほどに、懐かしくも尊い青春の幾歳月であった。それだけに、少年期、青年期の“鍛え”の重要さは、五体にたたきこまれている。その大恩の万分の一にも報いようと、私もまた、恩師のもとにひとたび決めた道を、まっしぐらに疾駆していきたいと念願新たな昨今である。
 「大智度論」に、“乞眼の婆羅門”ということが説かれている。
 釈尊の弟子のなかでも智慧第一といわれた舎利弗は、過去世に六十劫もの間修行をつづけてきた。これを見た魔王が、なんとか修行を妨げようと、婆羅門の姿となって舎利弗の前に現れ、眼を乞う。これも仏道修行と、舎利弗が一眼を与えると、手にした婆羅門は「くさい」とツバをかけ、地面に捨てて足で踏みつけてしまう。ばからしくなった舎利弗は、試練に負けて、せっかく積み上げてきた修行の道から退転してしまうのである。
 躾のような身近な問題に始まり、さまざまな面にいたるまで“鍛え”の気風から縁遠くなった現代である。そうした軟風に染まることなく、烈風に敢然と立ち向かう人生でありたいものだ。一生をどのように送ろうと、人生の最終章のバランス・シートは、だれでもない、自分で引き受ける以外にないのだから──。

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