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日蓮大聖人・池田大作

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乞眼の婆羅門  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
3  中国の古典『呂氏春秋』に、人間を評価するさいの心得として「八観六験」ということが述べられている。八観のほうは省略するとして、ここでは六験についてふれてみたい。験とは試験、実験とあるように「ためす」という意味である。
 「凡そ人を論ずるには(中略)之を喜ばせて以て其の守を験し、之を楽ませて以て其の僻を験し、之を怒らせて以て其の節を験し、之を懼れしめて以て其の特を験し、之を哀しませて以て其の人を験し、之を苦しましめて以て其の志を験す」(『國譯漢文大成』經子史部第二十巻「呂氏春秋」東洋文化協會)と。 喜ばせて守を験す──守とは守るの義、信念ともいえよう。有頂天になって信念を忘れていないかどうか。楽しませて僻を験す──僻とはクセである。楽しみにのみ、のめりこんでしまっては落第である。怒らせて節を験し──節とは程合い。怒りのあまりわれを忘れるようでは、ひとかどの人物であるとはいえない。懼れしめて特を験し──特は特立、独立に通じ、みずからの所信を貫いて一身を持することをいう。守にも似て、特の人とは信念の人である。哀しませて人を験す──人とは忍、つまり忍耐をさす。苦しませて志を験す──注釈の必要はあるまい。獅子はわが子を千尋の谷底へ突き落とす。
 喜び、楽しみ、怒り、懼れ、哀しみ、苦しみと、およそ人生のあらゆる試練の場に立たせてみて、それに耐えられるかどうかで人間を見よ、人物について評価を下せというのである。「八観六験、此れ賢主の・人を論ずる所以なり」(同前)と。
4  まことに古典の説くところは、含蓄に富んでいる。私も、恩師とともに戦った十年間は、厳愛につつまれてほとんど叱られ通しの日々月々であった。振り返ってみるほどに、懐かしくも尊い青春の幾歳月であった。それだけに、少年期、青年期の“鍛え”の重要さは、五体にたたきこまれている。その大恩の万分の一にも報いようと、私もまた、恩師のもとにひとたび決めた道を、まっしぐらに疾駆していきたいと念願新たな昨今である。
 「大智度論」に、“乞眼の婆羅門”ということが説かれている。
 釈尊の弟子のなかでも智慧第一といわれた舎利弗は、過去世に六十劫もの間修行をつづけてきた。これを見た魔王が、なんとか修行を妨げようと、婆羅門の姿となって舎利弗の前に現れ、眼を乞う。これも仏道修行と、舎利弗が一眼を与えると、手にした婆羅門は「くさい」とツバをかけ、地面に捨てて足で踏みつけてしまう。ばからしくなった舎利弗は、試練に負けて、せっかく積み上げてきた修行の道から退転してしまうのである。
 躾のような身近な問題に始まり、さまざまな面にいたるまで“鍛え”の気風から縁遠くなった現代である。そうした軟風に染まることなく、烈風に敢然と立ち向かう人生でありたいものだ。一生をどのように送ろうと、人生の最終章のバランス・シートは、だれでもない、自分で引き受ける以外にないのだから──。

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