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日蓮大聖人・池田大作

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「弓矢」の絆  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  家庭内のトラブルによるこの種の事件は、外からはうかがい知れぬ入り組んだ事情があるもので、私も軽々には論じたくはない。
 しかし、一連の経過を見ていると、一つのことだけは、まず間違いないといってよいと思う。それは、両親の間の亀裂が、そのまま若者の心の中に、深い傷跡を残していったということである。
 昨今のように、人の心の荒んでいる時代には、夫婦の絆こそ、子らの心を守る、最後にして最大の防波堤なのだ、との感をあらためて深くしたものの一人である。
 夫婦の絆といえば、ある婦人から、日蓮大聖人の御遺文集の一節の拝し方について問われたことがある。
 というのは「女人は水のごとし・うつは物にしたがう・女人は矢のごとし・弓につがはさる・女人はふねのごとし・かぢのまかするによるべし、しかるに女人はをとこ・ぬす人なれば女人ぬす人となる……」とあるけれど、夫婦といっても独立した人格、夫というものは妻にとって、どうしてこのような決定的な存在になるのでしょうか──とその婦人は言うのである。 「いや」──私は答えた──「それは、夫婦の本当の意味の愛情というか、深い信頼感をおっしゃっているのだと思う。大聖人はほかのところで『やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり』と妻のはたす絶大な役割を教えられてもいる。互いに弓のごとく、矢のごとく、それは夫婦の契りというものの、理想的なあり方を指摘しておられるのではないか」と。
3  ふつう“鴛鴦の契り”とか“比翼の鳥、連理の枝”に譬えられる夫婦の絆の深さというものを考えるとき、私はいつも『戦争と平和』に描かれた一人の女性・ナターシャを思い起こさずにはいられない。
 生気に満ちて魅力的なこの貴族令嬢は、結婚後、華やかな社交界とはきっぱり縁を切り、ロシアの大地の匂いのする妻、母へと変貌していくのである。以前のナターシャとは別人のようであるが、彼女の日々は、どっしりとした自信にあふれている。夫・ピエールとの間の深く固い信頼の絆で支えられているからだ。
 ピエールは、ツァーリ(皇帝)の圧政に反発して、ある秘密結社に加わって運動している。そんな彼が、あるとき書斎で、友人を相手に活発な政論を戦わせている最中に、ナターシャがはいってくる──。
 「話の最中にはいって来たナターシャは、うれしそうに夫に見入っていた。彼女は、夫の言っていることを喜んでいたのではなかった。そんなことは、彼女にはなんの興味もなかった。そんなことはみな、しごく単純なことで、ずっと前から知っていることのように思われていたからである(そんなふうに思われたのは、彼女はそれが出てくる源──ピエールの心をすっかり知っていたからである)。彼女はただ、彼のいきいきした、感激にみちた様子を見るのがうれしかったのである」(中村白葉訳、『トルストイ全集 6』所収、河出書房新社)
4  文豪トルストイの筆致は、さすがに見事な冴えを見せている。
 ナターシャの自信は、夫とあることについて同じ考えを持っているといった浅い次元のことではなく、もっともっと奥深い次元、つまり「それが出てくる源──ピエールの心」を知り、信じているところから出てくるものである。この次元の労作業こそ、じつは人生における最重要の課題であることを、彼女は生きて知ったのだ。
 古今の文学を通じて、夫婦の絆というものを、これほど感銘ぶかく見事に描き出した作品はまれではないかと、私は思っている。
 金属バット殺人事件にかぎらず、激増する中・高校生の校内暴力、家庭内暴力などを取り上げてみても、夫婦を軸とする家庭のありかたが、現代ほど問われる時代も少ないであろう。
 もとより家庭内だけの問題として扱うにはあまりに裾野が広すぎるが、少なくともわが家だけは、砂漠のオアシス、荒野の安息所のように安心して憩うことができるよう、盤石に築き上げておきたいものである。

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