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日蓮大聖人・池田大作

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牛飼いの男の恐怖  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  そんななかで、彼の死生観を語って、私が強く印象づけられている一書簡がある。刑死のほぼ半年前、萩の野山獄から弟子の入江杉蔵にあてたものである。そのなかで── 「死を求めもせず、死を辭しもせず、獄に在つては獄で出來る事をする、獄を出ては出て出來る事をする。時は云はず、勢は云はず、出來る事をして行き當つつれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く」(山口県教育会編『吉田松陰全集 第八巻』大和書房)と、その死生観を淡々と述べている。
 当時、松陰はまだ二十九歳。若い。しかし、彼のたどった道と教養の深さを思えば、そこに、若さの客気が生む観念的な背伸びを読んではなるまい。読みとるべきはむしろ、一つの徹した死生観である。
 江戸の獄舎に移送されたのちも、高杉晋作から「丈夫死すべき所如何」と問われて「死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便ち是れ死所」(同前)と答えているのも、感銘ぶかい。
 松陰独特の死生観の透徹ゆえに、彼の言葉は、死を論じて暗さを感じさせない。みずからの行動に対する絶対的な信念、未来と人間への信頼をたたえている。松陰の若さをいうならば、そういう形で凝結していると、私は思う。
 たしかにこうした死生観は、現代ではあまりはやらないだろう。といって、生死への関心が薄れているわけではなく、健康やガンなどの問題に対する人びとの関心の高まりは、むしろ異常といってよいほどだ。
 しかし、その関心の向き方には、どこか陰影がまとわりついていはしまいか。死を直視して生死に徹した松陰の澄明さとは逆に、死を見つめることを避けようとするあまり、かえって死の影に脅かされるという陰影、暗さが……。それが高ずると、結局は生きる力の衰弱につながっていくことになる。
3  これは、ある仏典に出てくるエピソードである。 ──釈尊がガンジス河のほとりで説法していたときのことである。話を聴いていた一人の牛飼いの男(歓喜)が、手を合わせて弟子入りを懇願する。
 釈尊は、まず牛を主人のところへ返してくるよう命ずる。
 「彼は道すがら、大きな声をあげて、
 『こわいよう、こわいよう』
 と叫びながら駆け出した。彼には仲間の牛飼いの男が百人あったが、このありさまをみて、口々に問うた。
 『何がそんなに恐ろしいのだ』
 すると歓喜は、
 『生きているのが恐ろしいのだ。老いて行くのが恐ろしいのだ。病気になるのが恐ろしいのだ。死んで行くのが恐ろしいのだ』
 と答えた。牛飼いの男たちはこれを聞いて、歓喜の後から『こわい、こわい』と叫びながら駆け出した。かくて他の牛飼いの男も、羊飼いの男も、草刈りの男も、柴刈りの男も、路傍の男もそれにつづいて駆け出した」(前掲『仏教説話百選』62~63㌻)
4  他愛のない話のようだが、この牛飼いの男や彼に雷同する男たちの愚かさを笑える現代人は少ないとはいえまいか。
 たしかに、死や病を恐れるのは人間の自然の情である。だから健康に留意する。無病息災ということは、充実した人生を送るための大切な要件である。
 私自身、若いころに胸を病み、青春時代は否応なく死と向かい合わせに生きた。であるからこそ、私には、健康の尊さが骨身にしみている。
 とともに、無病というだけでは、それが、反面の事実にすぎないことも忘れてはなるまい。事なかれ主義が真実の人生の充実をもたらしはしない。
 意義ある一生とは、生涯をかけて悔いない、ある意味ではみずからが死んでもなお生きつづける理想や目的があって、初めて可能となる。
 仏法では生死不二と説いている。そうした生き方は、日蓮大聖人が御遺文集のなかで「一生はゆめの上・明日をごせず」と仰せのように、現在の一瞬一瞬を最高度に充実させゆく日々のなかにのみ築かれていくと、私は信じている。
5  レミングという小動物は、三、四年の周期で大繁殖し、集団をつくって大移動する。途中、山を越え、植物を食い荒らしながら一直線に行進し、海岸に到着するとそのまま海中へ突き進み、集団で溺死してしまうという。
 牛飼いの男たちの姿は、どこかこのレミングに似ていはしまいか。われわれは、そうした轍だけは踏みたくないものだ。
 そのためにも、真実の死生観の確立こそ、現代人に課せられた、最も大きな宿題であると、訴えてやまない。

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