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日蓮大聖人・池田大作

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師曠の耳  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  かつてこの随想で古川柳の『誹風 柳多留』を取りあげ、わが国永遠の庶民像のなかに息づく、健康なユーモアや諧謔精神にふれたことがあった。川柳にかぎらず、落語や漫才が果たしてきた機能もそうであったろう。
 こうした庶民文化を、貧困、差別、抑圧など、当時の社会的諸矛盾から目をそらそうとするものであるなどと、浅薄な言を弄してはなるまい。もっと深い次元で人びとは知っていたにちがいない。今日の笑顔のないところ希望の明日を招き寄せることはできない、ということを。それはしたたかな民衆の知恵の所産であった。
 しかし、昨今の漫才ブームとやらを見ていると、そうとばかりもいっておれない感がする。私はテレビの漫才番組を観る機会もあまりないが、伝え聞くところでも、健康な、また風刺のきいた笑いというだけではない、なにか異質な要素が入りこんでいるものもあるように思えてならない。
 なかには老人いびり、身体障害者いびり……要するに弱者いびりまであるという。容姿や職業に向けられる饒舌の矢も多いらしく“残酷漫才”といった言葉も、ちらほら聞かれる。思わず笑いを誘う古来の諧謔精神とちがい、棘があり、心がささくれだっているようで、どうも親しめない。
 しかも私が最も気になるのは、そうした傾向と踵を接して、いわゆる“御上”に対する風刺がほとんど見られないということだ。これはとくに若年層に著しい政治的無力感、無関心を、すばやく写しとっているのではないかとひそかに心配している。
3  中国の春秋時代の話である。衛の霊公が晋の国へ向かう途次、それまで耳にしたことのない、えも言われぬ音楽を聞き、惚れこみ、従者の音楽師にそれを覚えさせた。晋に着くや、自慢して平公に聞かせることにした。
 当時、晋には名音楽師といわれた師曠がいた。平公に呼ばれて、霊公自慢の音楽を聴いていた師曠は、驚いて言う。
 「『しばらくお待ち下さい。それが新しい音楽だなんてとんでもないこと。これこそ亡国の音楽(亡国の音)ですぞ』
 おどろき、いぶかる両君に対し、師曠はそのいわれをつぎのように語って聞かせた。
 『むかし師延という名うての音楽師がいました。殷の紂王につかえ、王のために新声百里とか靡々の楽などという淫靡な曲をつくって献じましたところ、王はすっかりこの曲が気に入り、日夜弾奏させては聞き惚れていました。紂王はご存じのように、悪逆無道の故をもって、周の武王に亡ぼされました。紂王を失った師延は楽器を抱いて東に走り、濮水に行って投身自殺しました。ですから、あそこへゆくと、必ずこの曲を聞きます』」(前掲『中国故事物語』)と。 名づけて「亡国の音」──の故事である。
4  日蓮大聖人は御遺文集のなかで、この故事を引かれ「師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ」と仰せになっている。離婁という人は、師曠が素晴らしい耳をもっていたように、視力にすぐれ、百歩離れたところからも、毛の先を見分けたと伝えられる。
 いずれにせよ日蓮大聖人は、この故事をとおし、宗教の正邪はもとより、広く社会の盛衰の兆しを読みとっていく耳、眼、見識を養うよう、うながされているのである。
 私は漫才ブームを「亡国の音」などと目くじらたてるつもりはない。亡国をいうなら、さまざまな形をとって現れる右傾化、保守化の潮流こそそれである。
 “バター”を削って“大砲”に備える。戦後初めて防衛予算が福祉予算の伸びを上回ったことの不気味な予兆。平和憲法の改廃論議。いかなる大義名分を振りかざそうと、そこに「亡国の音」を聞き分ける師曠の耳をもつことが急務といってよい。
 しかし、どんな強圧的な政治であっても、民衆の最大多数の支持なくして事が運べようはずがない。これは、さきの大戦によってわれわれが得た、そして二度と手放してはならぬ貴重な教訓である。
 だから、民心の動向こそ、大事中の大事となってくる。笑いひとつにしても、その心の模様図は、じつに正確に反映しているものだ。 揺れ動く民心の健康度いかん──、師曠の鋭い耳は、そうした次元をも決して聞き逃すことはないと思うのだが、どうだろう。

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