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日蓮大聖人・池田大作

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心の財  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  雨の日でも、雪の日でも、そして青空のもとでも、嵐のなかでも、つねにかぎりなき神秘な瞳をもつ少年たちの姿は、尊き地球上の宝の存在といってよい。
 そこには、風雪に耐えながら、春来たりて萌えいでんとする若芽の、大地の殻を打ち破っていく生命力に、相通ずるものがあるといえよう。
 ルソーは、不朽の名著『エミール』のなかで、思春期を迎えた青少年の姿を、次のように描き出している。
 「暴風雨に先だってはやくから海が荒れさわぐように、この危険な変化は、あらわれはじめた情念のつぶやきによって予告される。にぶい音をたてて醗酵しているものが危険の近づきつつあることを警告する。気分の変化、たびたびの興奮、たえまない精神の動揺が子どもをほとんど手におえなくする。まえには素直に従っていた人の声も子どもには聞こえなくなる。それは熱病にかかったライオンのようなものだ」(今野一雄訳、岩波文庫)
 ご存じのように『エミール』は、同名の男の子が、ルソーの理想とする教育によって成長していく姿を描いた書で、教育学の古典とされている。教育というよりも人間に関心のある人ならば、一度は目を通しておきたい本である。
 それにしても、十五歳を迎えたエミールを「熱病にかかったライオンのようなもの」とは、言い得て妙ではあるまいか。
 十五歳といえば、現代では中学から高校へいたる年代である。子どもから大人へ脱皮する重要な時期といえよう。ルソーはこれを「第二の誕生」と呼んでいるが、この年代の青少年教育ということのむずかしさは、彼の時代もいまも変わりがないようだ。
2  ところで、昨今の日本の青少年たちの状況はどうであろうか。家庭で学校で、彼らは熱病を癒す名医を得ているであろうか。激しい情念の振幅を伴う青春特有の病は、しかるべき健全な方向へと、成長の歩を運んでいるであろうか。残念ながら、とてもそうは思えない。
 いつの時代にもまして、病は膏肓に入りつつあるのではないかと、憂慮する今日このごろでさえある。
 とくに最近は、校内暴力が深刻化し、しかもそれが高校から中学へと移りつつあることが伝えられている。その暴力も、生徒間の争いからエスカレートして、教師に向けられるものが激増してきた。一部の中学校では、そのため授業の進行にもさしつかえが出始めているという。
 暴力を排除するための制服警官の導入といえば、ついこの間までは大学と相場が決まっていたが、昨今は、中学校でもそれに踏み切らなければならないところが出始めている。家庭内暴力の問題も含め、お母さん方も、さぞ心を痛めておられることであろう。
3  私も、荒れる教育現場からのいくつかの手記、記事を読んだ。なかでも一番心を打たれたのは、一ジャーナリストがもらしていた所感であった。すなわち、いまの大人は人間の内面にひどく無神経になっている、子どもの外側をととのえることにはたいへん熱心だが、その内側に目を注ぐことには怠慢な大人が増えている、というのである。
 問題の核心を鋭くえぐっているといってよい。
 ルソーも言う。「青年の心にあらわれはじめた感受性の最初の動きに刺激をあたえ、それをはぐくんでいこうとするなら、かれの性格を慈悲と親切のほうへむけさせようとするなら、人々の幸福のいつわりの姿を見せて、傲慢な心、虚栄心、羨望の念を芽ばえさせるようなことをしてはならない」「人間を知らないうちに世間を見せてやることは、かれを教育することにはならないで、堕落させることになる」(同前)と。
 ルソーの言う「人間を知る」とは、人間の内面、内側に目を注ぎ、自己を確立しゆくことにほかなるまい。
 成長しゆく子どもたちにとって最も大切なこの一点を忘れ、いわゆるエリート・コースに乗せることのみに狂奔するような生き方は、偏頗で傲慢で、人の心を解しない人情不感症とでもいうべき人間しか生み出さないものである。
 まことに子どもは親の鏡、社会の鏡といえまいか。
4  昔、釈尊が祇園精舎で説法していたとき、一人の愚かな男がいた。
 「ある日、外出する主人から門を守る外に、ロバに注意するよう命ぜられた。しかし彼は、その日、隣の家で音楽会があるので、それをききたくて我慢が出来なく、とうとう門を取りはずしてロバの背にそれをしばりつけ、そのロバを連れて音楽をききに行った。処が、あいにく、その留守中に泥棒が忍びこんで家財道具の一切が盗まれてしまった」(前掲『仏教説話文学全集 5』253㌻)
 この男が、帰ってきた主人からこっぴどく叱られたことは言うまでもない。ある仏典に出てくる話であるが、何のために門を守るのかという本質を忘れた男の愚かさを、いまの教育が笑えるであろうか。 何のための教育、何のための学問──荒れ狂う子どもたちの姿は、この原点をおろそかにした現代社会への無言の告発のように思えてならない。
 日蓮大聖人も御遺文集のなかで「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と仰せになっている。
 この「心の財」こそ、人間の内面世界の至極の尊さを示されたものといえる。
 われわれはそろそろ、外側ばかりを追いつづけてきた現代文明の転倒に気づくべきである。そこにのみ「熱病にかかったライオン」が、病癒え、威風堂々たる百獣の王のように成長しゆく道が開かれていくであろう。

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