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日蓮大聖人・池田大作

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貪愛の母  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  腕白といえば、画家で彫刻家の岡本太郎氏も、相当なものであったらしい。
 何年か前、氏の自伝風の『画文集 挑む』を興味ぶかく読んだのだが、なにせ利かん気が強く、小学校一年にして転校に次ぐ転校、四つめの慶応幼稚舎に入って、やっと落ち着いたというほどである。
 私が興趣をそそられたのは、そんな太郎少年に接する母親・かの子女史の姿勢である。
 芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』で文壇にデビューして、著名な文人であった岡本かの子。文学に情熱を燃やす彼女は、一日中机に向かって読書や書きものをしているときが多かった。
 かまってもらえない太郎少年が、不満で背中に飛びついたりすると、母は兵児帯をわが子の胴に巻きつけ、柱かなにかに繋いでしまう。泣こうがわめこうが、決して帯を解いてはくれなかったそうである。
 「明るい障子、庭に面した机に向かって、ぱさりと黒髪を背にたらした母の後ろ姿……それは私の目にやきついた強烈な思い出だ」(講談社文庫)と、岡本氏は記している。
 たしかに辛く悲しかったが、みじんも動かない母の後ろ姿に、なにか「神聖感」を覚え、「強い一体感」をいだいていた、とも述懐しているのであった。
 おそらく、かの子女史の性格もあったのであろう。こうした母子関係は、ふつうの人には極端な印象を与えるかもしれない。しかしそこには、巷間いわれるようなベトベトしたもたれ合いはいっさいない。母は背で語り、子は母の背から、自立した人間の生き方というものを、無言のうちに本能的に学び取っているのだ。
3  もう一つ、福沢諭吉の母をあげてみたい。
 大分・中津を出て大阪の緒方洪庵の塾に学んでいた諭吉は、安政三年(一八五六年)九月、長兄の訃報を受けて郷里・中津へ帰る。男兄弟は二人のため、諭吉が家督を継ぐことになる。
 家督相続をした以上、郷里にとどまるべきが筋なのだが、若き諭吉の向学の志は燃えさかるばかりであった。親類縁者に心の内を打ち明けても、すごい剣幕で怒られるばかりで、とりつくしまがない。
 思いあまった諭吉は、意を決して母に直談判におよぶ。
 「どんな事があっても私は中津で朽ち果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒私を手放して下さらぬか」(『新訂 福翁自伝』富田正文校訂、岩波文庫)
 諭吉が家を出れば、残るは老母と三歳になる長兄の遺児の二人暮らしになってしまう。しかし、母はなかなか思い切りのいい性格で、
 「ウム、宜しい」
 「アナタさえそう言って下されば、誰が何と言っても怖いことはない」
 「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまた余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい」(同前)
 かくて諭吉の大阪行きが決まる。それは諭吉が二十歳をいくつか出たころのことである。この母の断がなければ、明治の思想界、教育界の先覚・福沢諭吉の名は聞くことができなかったであろう。
4  日本は母性社会であるといわれる。だが、二人の母の例にみられるような母性のもつ強さというものが、現代の社会では徐々に毀れつつあるように、私には思えてならない。深く進行しつつある子どもたちの登校拒否や家庭内暴力などは、その証左といってよい。
 ある識者は、登校拒否児に共通する特徴として、母親と一緒にいたいという欲望と同時に、学校へ行かせたいという母親の願いに対する反発をあげている。 その反発が、長じて家庭内暴力へと発展する──。もとより母親ばかりの責任では決してないが、それらの根にあるものは、岡本かの子女史や福沢諭吉の母の生き方とはまったく逆の、母と子のもたれ合い、癒着した関係である。
 仏法では「貪愛の母」ということを説いている。
 貪愛とは、五欲に執着することで、広くエゴイズム一般とも拝せよう。わが子に寄りかかり、思いどおりにしようとする欲望も、当然そのなかに含まれる。しかし、それでは子どもたちの自立心は育ちはしまい。 はえば立て 立てば歩めの 親心──とよく言うではないか。
 どこまでもわが子の、健全で逞しい成長を願うのが、親心である。であればこそ「貪愛の母」であってはならない。みずからの生き方を正しく保ち、自信をもった“後ろ姿”を、わが子の前に示していく以外にないと知っていきたい。

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