Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

五眼  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  「もっと光を!」という有名な言葉がある。
 文豪ゲーテの、いまわの際の言として広く知られている。彼のかかりつけの医者であったカール・フォーゲルの病状報告のなかに出てくるという。いかにもゲーテらしい名言である。フォーゲルの病状報告にも「この方はどんな闇もきらいであった」と記されているように、ゲーテは、太陽の明るさ、豊かさをこよなく愛した人であった。愛弟子エッカーマンとの最後の対話には、次のような印象ぶかい一節がある。「私は太陽の中に見る神の光と創造力とを崇拝する。われわれすべてはこれによってのみ生き、いそしみ、そして存在するのである」(エッカーマン著『ゲーテとの対話 下巻』神保光太郎訳、角川文庫)と。そのゲーテが八十年を超える生涯を閉じるにさいし、時代の闇を照破しゆく「光」を待望する──。
 いかにも文豪らしい臨終の言葉だとはいえまいか。
3  ところで、これには異説がある。
 当時の「一般文学新聞」によると「もっと光を!」の真意は、ゲーテがかたわらの下男に向かって、書斎の二つめの鎧戸も光が入るように開けてくれ、と言ったにすぎないのではないか、というのである。「もっと光を!」にはちがいないが、こうなると即物的で、味も素っ気もない。もはや、どちらが真相かを、確かめるすべはない。しかし、真相が不明であるとすれば、なにも物事を、あえてつまらぬ方向に解釈する必要はないのではないか、と思うのである。
 美しいものは美しい、偉大なものは偉大であると、率直に私はみたいが、どうであろうか。
 ゲーテも、世に氾濫するいわゆる知ったかぶりの論評には、かなり腹に据えかねていたらしい。やはりエッカーマンとの対話にも、それらしい一節がある。
 「さまざまな所から出ている新聞、雑誌の批評は毎日、五十を数える。そして、これを読んで、公衆の間に行なわれる饒舌、こうしたものは決して健全な作品を齎さない。現代にあってはあくまでそこから身を退き、無理にも孤立しなければ滅びてしまう。しかも、その大部分が否定的な似而非美学的中傷を事とする悪質のジャーナリズムである。それにより民衆の中一種半可通の文化が現われているがこれは萌え出ようとする才能には性悪な霧となり、襲いかかる毒素となる」(同前)
 このゲーテの述懐を、われわれは果たして、百五十年以上も昔の言葉として、聞き流しておれるであろうか。
4  仏法では「五眼」ということを説いている。それは物事の真偽を見極めるための五つの眼をいう。
 第一に肉眼、さえぎるものがあると見えなくなってしまう、肉体に備わった目。第二に天眼、昼夜遠近を問わず見ることができるという天人の目。第三に慧眼、深い知識を得ることによって物事を判断する目。第四に法眼、民衆救済のために仏法の法則にのっとって物事を判断する菩薩の智慧の目。第五に仏眼、過去・現在・未来にわたって事物、事象を見通す仏の目。以上の五つである。
 仏眼については、凡愚のわれわれのとうてい推察しうるところではないが、同じ物事を見るにも、このようにより深くより広い目があることを教えているといえようか。
 第四の法眼とは知識の目ではない。智慧の目である。しかも、いかにして他を利し、人びとを救うかという慈愛の精神に裏打ちされた智慧の目である。
 もちろん幅広い知識も大切だが、知識の目だけでは、どうしても型にはまった見方になりやすい。それにくらべて智慧の目は、柔軟でこだわりがない。物事の善悪、理非を、知識や情報に振り回されることなく、率直に見る目である。その視線は、美しいものを醜く、偉大なものを卑小にとらえがちな人間の通弊とは無縁である。
 私は、どんなに学歴がなくても、人間への深い愛情と智慧の目をおのずと身につけた庶民の実像を、じつに数多く知っている。
 真実を見誤らないためにも、智慧の目を磨きに磨く日々でありたいものだ。

1
2