Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

心の空洞  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  人の心ほど、とらえにくいものはない。 それであって、人間の心を動かすものはまた、人間の心である──。
 わかりきったことのようだが、これは決してそれほどかんたんなことではない。
 それどころか、金銭、利害、名誉、虚栄などに、自分の心が振り回されているほうが、ずいぶん多いのではなかろうか。
 また心といっても、愛憎など一時的な感情の起伏にすぎないものが、広大な心の沃野を領し、封じこめてしまうケースも、日常よくみられることである。
 人間の真実の心をおおい隠すそうした夾雑物を、仏法では“八風”と説いている。利(うるおい)、衰(おとろえ)、毀(やぶれ)、誉(ほまれ)、称(たたえ)、譏(そしり)、苦(くるしみ)、楽(たのしみ)の八つをいう。
 そのうち利・誉・称・楽を四順といい、人びとはこれを欲し、これに執着する。反対に、衰・毀・譏・苦を四違といい、人びとの忌み嫌うところとされている。
 日蓮大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」と仰せになり、縁に紛動されぬまことの人間の生き方を示されている。なかなかむずかしいことだが、人間の心が人間の心を動かす、すなわち魂を揺さぶるような触発作業の場には、かならず“八風”に侵されることのない、鍛え抜かれた心の容姿が見いだせるものだ。
2  「涅槃経」に雪山童子の物語が出てくる。釈尊の過去世の仏道修行の厳しさを述べたものである。
 雪山(インド北部のヒマラヤ山脈)に、雪山童子という修行者がいた。金銀財宝などには見むきもせず、ひたすら法を求めて修行をつづけていた。それどころか、法のためには、いざとなったら妻や子はおろか、みずからの生命さえも投げ出す決意を固めている。
 しかし帝釈天は、そんな雪山童子の求道の心に若干の疑問をもつ。そしてその心を試そうと、みずから羅刹(鬼)に身を変じて、童子の前に立ち現れるのである。ひとつも恐れる心なき童子は、静かに羅刹に向かう。しばらくして羅刹は、
 「諸行は無常なり、是生滅の法なり」
 と、その昔、仏の説いた偈を半分だけ述べる。これを聞き、喜んだ童子は、後の半分を聞きたいと請い願う。羅刹の望みに応じて、その代償として自分の肉体をも与えることを約束し、後の半偈に耳を澄ませる。
 「生滅を滅し已って、寂滅を楽と為す」
 聞き終えた童子は、その偈を人びとに遺すために所々に書き記してから、高い木に登り、羅刹めがけて身を投じた。その瞬間、帝釈天の姿を現し、雪山童子の体を受けとめ、不惜身命の求道心の固さを賞でたという。
3  雪山童子が求め抜いたものも“八風”という嵐に揺るがぬ大樹のような心と、それを支える厳たる法の存在である。ほかでもない「賢人」の生き方といえるだろう。
 “八風”に侵されぬ人生と“八風”に翻弄されゆく人生と──。
 仏法とは若干ニュアンスを異にするが、すぐれた文学作品には、両者の激しく劇的な撃ち合いを描いたものが少なくない。私は、とくに若年のころ、そうした作品にいくつも巡り合い、心を育む糧としたものであった。
 なかでも、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』での主人公ジャン・ヴァルジャンとジャヴェル警視との執念と執念の戦い、生死をかけての葛藤は、私の思い出に刻まれ、炎として消えることはない。
 善を志して生きゆくジャン・ヴァルジャンを、蛇のように執念ぶかく追い回し、おとしいれるジャヴェルの所業を、少年時代の私は、ことさら憎らしく思ったものだ。しかし、愛と寛容に満ちたジャン・ヴァルジャンの堅固な善心は、凍てついた大地のごとく残酷にして偏狭なジャヴェルの心をも、ついに溶かしたのであった。
 これは、人間の善性の偉大なる勝利であった。ジャヴェルの心の中には、ポッカリと、底知れぬ空洞ができたにちがいない。“八風”に執する人が、翻弄されゆく己自身を初めて目のあたりにしたときの、空しさと恐ろしさ。
 「一つの珍事が、一つの革命が、一つの破滅が、彼の心の底に起こったのである」(豊島与志雄訳、岩波文庫)と、ユゴーはほとばしる言と句で描写した。
 「彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こぎにされたのを感じた」「彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさし、彼を眩惑さした。鷲の目を持つことを強いられた梟であった」(同前)
 「道徳の太陽」の眩しさに、たまらずジャヴェルは自殺し、果てる。
4  “自然は真空を嫌う”という。
 同じように人間の心も、空洞の存在を知って耐えられはしない。雪山童子の求道の炎は、万人の鏡である。また、人間だれしも、たとえ意識しなくても、奥底では自身の“芯”となるべき確たる充足感を求めているものだ。どんなに上辺をとりつくろおうと、自己の正当性を強弁しようと、メッキはいずれはげ、空洞に気づくときがかならずくる。
 ジャヴェルの悲劇を繰り返さないためにも、人生の真実は何であるかを、つねに求め、見失わない日々でありたいものである。

1
1