Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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不軽菩薩の振る舞い  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
3  よく、場に臨んで媚びへつらい、追従の世辞を並べたてる人がいる。逆に独り合点の驕慢の言を弄して、自己満足をしている人もいる。逆のようでも媚態と驕慢とは、一つ心の、裏と表にすぎないといってよい。
 縁にふれて、裏が表になり、表が裏になる。こういう人は、すべてに己の心根の卑しさを投影してやまない。なにかを見たようなつもりでいても、見ているものは、じつは己の卑しさの影でしかない。つまり人間が見えないのである。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とはよくいったもので、プライスの言葉は、こうした、人間が陥りがちな通性を突き破る、人間性の尊い真実を語っているといってよい。
4  法華経に不軽菩薩という修行者が描かれている。常不軽菩薩ともいう。
 仏道修行を志して一歩も退かない。人びとは、出家も在家もこぞって迫害を繰り返すが、不軽という名前のごとく「我深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず……」と述べ、信ずる道を歩みつづけた。そしてついに、六根清浄を得、仏になることができたという。
 これは、仏道修行というものの厳しさを教えたものだが、広く拝すれば、人間関係のあり方一般をもつつみこむ教訓が、含まれているといってよい。不軽菩薩の目には、自分を含む一切衆生の生命に存在する、仏性という尊極無比の心の核が見えていたのだ。しかと見えていたからこそ、不軽はそれを信ずることができたのだ。
 人びとを敬いつづけた不軽の振る舞いのすべては、その信から発している。
 人の尊さを信ずるということは善であり、善は人間関係を潤し、生かす最高の力であるといえよう。
 こうした力を軸にしていかないかぎり、世の中は、いたずらに悪の力のみが跳梁跋扈する闇におおわれてしまう──そんなことが痛感されてならない昨今である。

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