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日蓮大聖人・池田大作

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民の心に聴く  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  この世で、支払いもなく、それであって絶対に不可欠のものは、空気と水である。澄みわたる天空の舞台に生きることのできる人生と、流れゆく水と海は、私どもの人生にとっての、まことにありがたき価値の存在といってよい。
 ともかく、この水を、この空気を、この緑を、そしてまたそれに連なる最も大切な少年の心を、母親の心を、守りに守っていくのが、政治の政治たる目的でなければならないはずだ。
 中国古代、聖天子として知られた尭帝の時代の話である。
 尭は王位にのぼって以来、いちずに善政を心がけ、万民から敬慕されていた。無事安穏の生活がつづくこと五十年、平和ゆえに、心の中は多少は不安になるのであった。真に世の中は平穏に治まっているのか──。
 そこで尭はある日、おしのびで視察に出た。そして、四辻にさしかかったとき、子どもらが手をとり合って遊びつつ、尭帝を称える歌を唱和していた。こんな童子らも暮らしに満足している様子に、いっときは安心するが、すぐまた尭の心に不安の影がさしてくるのであった。
 「心の不安を追い散らすかのように、尭は歩調を早めて先に進む。いつしか町はずれまできてしまっている。ふとかたわらに目をやると、白髪のお百姓がひとり、食べもので口をもごつかせながら、木ごま遊び──撃壌(壌をぶちつけあって勝負をきめる遊び)に夢中のありさま、お腹を叩いて拍子をとりながら、しわがれた声でつぶやくように、だが楽しげに歌っている。
  日出でて作き
  日入りて息う
  井を鑿りて飲み
  田を耕して食う
  帝力我に何かあらんや!」(後藤基巳・駒田信二・常石茂編『中国故事物語』河出書房新社)
 これを聴いて尭の心は晴ればれとし、たちまち不安は一掃された。民衆が平和を満喫し、鼓腹(はらつづみ)をうち撃壌(きごまあそび)をして楽しんでいるのは、善政の証である。帰路、その足どりは、軽やかだった、という。
2  “鼓腹撃壌”の故事として知られているものである。 「帝力我に何かあらんや!」──後藤基巳氏の訳によると「天子さまなぞ/おいらの暮らしにゃ/あってもなくても/おんなじことさ」(同前)となる。まこと政治の本質を言い得て妙ではなかろうか。尭帝の善政は、水や空気のように人びとの生活に溶けこみ、それと意識されることなく民を守り、暮らしの隅々まで潤していたのであろう。
 私はそこに、政治の一つの理想の姿を見る思いがするのである。もちろん、これは古代の伝説的故事ではある。混迷と複雑化をきわめる現代社会からは、はるかに遠い。
 しかし、尭と、それにつづく舜の治世が、永く語り継がれてきたのは、人びとが尭舜の世に、現実の世で得られぬ理想の政治家像を仮託してきたからにちがいない。言わば、この故事には、現実政治の矛盾と乱れに苦しむ、民衆の切なる願いがこめられているといってよいだろう。
 無為にして治まる、と一口にいうが、そこには無私の心で民の声に耳を傾ける姿勢がある。“天子さまなぞ関係ない”といわれて喜ぶ、指導者の大きさがあった。
 日蓮大聖人は御遺文集のなかで「尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」と述べられている。
 尭や舜が万民に対して偏頗の心なく、平等に善政を行ったのは、人の生命に備わっている、仏界の働きの一分のあらわれともいえる、というのである。
3  いまの世の、政治のあり方はどうだろう。
 ロッキード、ダグラス、グラマンなどの航空機疑獄、KDD、税政連、トバク事件など、“鼓腹撃壌”どころか、寸刻も政治監視の目を離すことはできないありさまである。今回の衆参両院同時選挙(昭和五十五年)で、政治の浄化ということが大きな焦点となっていることに、私は感慨新たなものがある。というのも、昭和三十年代、わが有志を政治の世界へ送り出したとき、最も強く訴えたのが、この点であったからである。
 当時は「素人論議だ」といった類の嘲罵が、数多く投げかけられたものである。それから二十幾星霜、政治の浄化は、いまや国民的課題となってきているのである。
 今年の初め、私はこの随想で、日本の現状は「噴火山上に踊る」ありさまにほかならない、と述べた。どうやら火口は噴煙をあげ、多量のマグマ(岩漿)を流し始めたようである。
 「天の聡明は、我が民の聡明に自う」と古の賢人も言った。日本の前途を大事にいたらせないためにも、賢明なる民衆の存在、民衆の政治選択というものが、いまほど大切になってきた時代もないと思うのである。

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