Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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有為の雲  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  一人の平凡な人間が、病気に襲われたことを契機に、徐々に人生の真実に目覚めゆくさまを描いた傑作に、トルストイの『イワン・イリッチの死』という小品がある。
 生死の問題を描いて、文豪の筆は類まれな冴えを示しており、長編にも劣らない、人の心に訴えるなにかがある。(以下、カッコの部分は米川正夫訳、岩波文庫から引用)
 イワン・イリッチ。月並みな一公務員である。
 官吏の家に生まれ、最終的には中央裁判所の判事までのぼりつめるエリートだが、その半生は「ごく単純で平凡」だった。妻と二人の子どもをかかえ「勤務上の喜びは自尊心の喜びであり、社交上の喜びは虚栄心の喜びであった」。またカード遊びをこよなく愛している。仕事もそつなくこなす、言わば可もなく不可もなし、の典型的な官吏タイプであった。
 そんな彼が、あるとき不治の病にとりつかれる。家の飾り付けをしていたさい、台から転落して窓の取っ手に横腹を打ちつけたのだ。はじめはたいしたことはなかったが、そのうち口中に妙な味を覚えたり、絶えず脇腹に重苦しさが感じられるようになる。何人もの医者にかかるが、病名はいっこうに要領を得ない。苦痛はいやますばかりである。
 彼は、仕事に没頭することで、それを忘れようとする。だが横腹の痛みは、裁判の進行などおかまいなしに襲ってくる。「あいつがやって来てまともに彼の前に立ちふさがりながら、ひたと彼をみつめる」。
 彼は、呆然として自分自身に問いかけるのであった。「いったいただあいつばかりが本当なのかしらん?」と。
 イワン・イリッチのその後は、あいつとの壮絶きわまる格闘である。
 「問題は盲腸でもなければ、腎臓でもない、生きるか……死ぬるかという問題なのだ」。生死という根本事に比べれば、かつて彼の人生を彩っていた仕事、社交、カード遊びなどは、夢幻に化してしまう。
 「今の彼イワン・イリッチを造りあげた時代が始まるやいなや、その当時よろこびと思われたものが、今の彼の目から見ると、すべて空しく消えてしまい、なにかやくざなものと化し終り、その多くは穢らわしいものにさえ思われた」
 そして死の二時間前、一つの啓示がおとずれる。「本当の事」。死の恐怖が去り、死の代わりに光があった。「『いよいよお終いだ!』誰かが頭の上で言った。
 彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ』」。臨終。
 まことに迫真の筆致といってよい。
3  日蓮大聖人は御遺文集のなかで「秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も月と共に有為の雲に入りて後面影ばかり身にそひて物いふことなし月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし然れどもかくれし人は今いづくにか住みぬらんおぼつかなし」と、人生の無常なる一面を述べられつつ、日々確たる人生を築きゆくことの大切さを教えられている。
 「有為」とは「無為」に対する言葉で、流転し消滅しゆく事物をさす。
 たしかにそれも大切であろう。しかし「有為」がすべてと思っていると、それらが厚い雲の陰に隠れてしまったとき、残るのは言いようのない空しさだけではあるまいか。 ちょうど、イワン・イリッチがそうであったように──。
 かぎられた人生である。なにが「本当の事」であるかを見失うことのない求道と前進の日々、そして生涯でありたいものである。

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