Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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菩提の慧火
「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)
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1
私の青春は、まことに戦争の犠牲の青春であった、といってよい。ゆえに、絶対平和主義の仏法に、私の心は凝結した。
「戦争ほど、残酷なものはない。
戦争ほど、悲惨なものはない」
私はいまを去る十五年前(昭和四十年)、小説『人間革命』の冒頭を、こういう書き出しで飾った。それは、再び私と同じような青春の犠牲の道を、未来の青年たちに歩ませては、断じてならない、という心情と感情からの発露であった。
戦争──。
この忌まわしい言葉が、このところ私たちの身の回りにちらつき始めている。昨年から今年にかけて、イランのアメリカ大使館人質問題や、ソ連のアフガニスタンへの侵攻など、国際情勢は急速に緊迫化、第二の“冷戦時代”突入、という声も多い今日このごろである。
それに便乗するかのように、ある財界人は“徴兵制”の復活を喧伝し始める始末である。「有事」のさいは民有地も陣地になるなどと、二年前の「有事立法」論議と根を同じくするきな臭い論調も、マスコミをにぎわせている。それだけに婦人の方々も、永遠の平和主義者として、鋭くも厳しく、時流を監視していっていただきたいと思う。
2
女性が謳いあげた反戦の叫びというと、明治の女流歌人・与謝野晶子が弟にささげた「君死に給うこと勿れ」があまりにも有名であるが、最近ある本を読んでいて、懐かしい歌に再会した。やはり明治の女流歌人である大塚楠緒子の「お百度詣」がそれである。夫を戦地に送り出した妻の痛惜の情をたたきつけたものだ。
ひとあし踏みて夫思ひ、
ふたあし国を思へども、
三足ふたゝび夫おもふ、
女心に咎ありや。
朝日に匂ふ日の本の、
国は世界に唯一つ。
妻と呼ばれて契りてし、
人も此世に唯ひとり。
かくて御国と我夫と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎ありや(『現代日本文学大系5』所収、筑摩書房)
初めて目にしたのは、戦後まもない時期であったと記憶している。“神州不滅”の空しいスローガンに、私はこりごりしていたので「お百度詣」の類にはまったく関心がなかった。しかし、その詩句にこめられた万感のおもい、痛烈なジレンマには激しく胸を揺さぶられた。“銃後の妻”“銃後の母”は、たとえ口には出さなくとも、独り、こうした思いを抱きしめていたのではあるまいか。
3
大乗仏教では「煩悩即菩提」という人生の根本哲理を説いている。
煩悩とは、
貪
むさぼり
瞋
いかり
癡
おろか
慢
思い上がり
疑
うたがい
など、総じて人びとの心身を煩わし悩ませる心の働きをさす。
また菩提とは悟りのことである。小乗仏教では、煩悩があるため悩み苦しむのであるから、もろもろの執着を断ち煩悩を滅却せよ、と説くのである。しかし、大乗仏教はちがう。人間であるかぎり、煩悩をもつのは当然のことであるとして、それを、菩提の方向へと、そのまま開き、昇華させていく方途を教えている。そこには、コペルニクス的転回があるといってもよいだろう。
私の信奉してやまぬ日蓮大聖人は、その御遺文集のなかで、この哲理を「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と、まさに見事なる譬喩をもって説かれている。
「薪」の存在が煩わしいからといって、捨て去ってしまえば、それこそ元も子もなくなるのである。この世の闇を照らし、人びとの心にエネルギーを点じゆく、人生の「慧火」は得られなくなってしまうことを知らなくてはならない。
かの大塚楠緒子の歌う“銃後の妻”の煩悶も、ある意味では煩悩といえるかもしれない。しかしその煩悩は、非情なる国家権力と夫への慕情との狭間で、必死に菩提への突破口を探し求めている。その切なる思いに、大乗仏教の慈悲の精神にも通じていく、女性の平和主義者としての本領を垣間見ることができると私は思う。
戦前の軍歌にある「散れよ背の君 勇ましく」(「松花江千里」植田国境子作詞・作曲)などという生き方は、人間の情に悖って、あまりに小乗的であるといわざるをえない。
4
前章に引きつづき、恐縮だが恩師の思い出を記させていただく。
三十年近く前になろうか、恩師を囲むある青年たちの会合で、私は一つの質問をした。
──源平の戦いを読んでいて感ずるのですが、斬ったり、射ったりし合っていて、こわくないのでしょうか。
度の強い眼鏡の奥で深くうなずいた恩師の応えが、私には忘れられない。
──本当の人生を知っているなら、こわいと感ずるのが当たり前です。
こわいというのが人間性、こわくないというのは非人間性である、というのである。殺し殺される戦争はよくないと思うのが当然で、そのために敢然と戦いきることが真の勇気であり、人間の本当の強さである。恩師の簡勁な言の葉に、私は、大乗的な生き方の真髄を目のあたりにする思いがしたのであった。
女性は平和主義者であるというのが、私の変わらざる信念である。
尊厳なる生命を守り育む、そこに身を挺して生き抜く女性の姿ほど強く、かつ尊く、また美しいものはない。婦人たちよ、家庭や地域にあってはもとより、広く社会全体の動向にまで、敏感にアンテナを働かすことのできる“平和の戦士”であってほしい──それが、私の切なる念願である。
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