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日蓮大聖人・池田大作

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地平に昇る太陽  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  私は江戸っ子であり、淡白な性格で、よく人に騙される。私の恩師は、人を騙すより人に騙されるほうがましだよ、とよく慰めてくれた。とともに、その人の性格というものを、厳しく見極めていけないようでは、偉大な指導者にはなれない、と付け加えて指導してくださった。
 人を知るということは、なかなかむずかしいものである。
 外見だけでは判断できないことも多い。こういう人だと思っても、なにかの折に、その人の意外な奥行きの深さに一驚することもある。とくに人間性の芯の部分ともなると、一朝一夕の接し方では、容易にわからない。じっくりと付き合いを重ね、友情が醸し出されるなかに、深い理解も、互いの陶冶も生まれるものであろう。
 それだけに、どういう友人をもっているかに、その人の人柄が表れるともいえる。
 古賢も、賢師良友の重要性を説いて、「其の子を知らずば其の友を視よ、其の君を知らずば其の左右を視よ」と述べているように、魅力ある人格の周囲には、磁石が鉄片をひきつけるのにも似て、しぜんによき友が集まってくるものだ。
 そこに切磋琢磨がなされ、互いの成長がある。
2  最近、ある新聞の「子育てママは“孤独”」という記事を目にした。若い主婦の間で、育児雑誌の「友だち募集欄」が人気を呼んでいるという。家事と育児に追われ、社会から孤立しがちな彼女たちの、心を開いて話し合う友、支え合い磨き合う友がほしい、という切実な心の表れであろう。
 また、女性の生涯を考えた場合、育児から手が離れ、一人の人間として自身を振り返らざるをえない年代になったときに、触発し合える友人をもっていることは、どれほど人生に芳醇な味わいと彩りを与えるであろうか。
 日蓮大聖人も御遺文集のなかで「蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」と仰せになっている。「蘭室の友」とは高徳の人、「麻畝の性」とは善良でまっすぐな性格をさす。
 まことに真実の交友というものは、人生の果実をたわわに実らせゆく、豊潤な大地の力を秘めているといってよい。
 釈尊はある仏典で、善友について、太陽の地平に昇りゆく様子にたとえている。
 「比丘たちよ、なんじらは、朝、陽の出るさまをよく知っているであろう。陽の出るにあたっては、まず、東の空が明るくなってくる。やがて、光炎がさっと輝きわたって、陽がのぼってくる。すなわち、東の空が明るくなるのは、陽ののぼる先駆であり、前兆である。比丘たちよ、それと同じように、なんじらが聖なる八支の道(八正道)を起こすにあたっても、その先駆があり、その前兆がある。それは、善き友をもつことである。
 比丘たちよ、されば、善き友をもてる比丘においては、彼がやがて、聖なる八支の道を習い修め、その功をかさねるに到るであろうことが、期して俟たれるのである」(増谷文雄『智慧と愛のことば〈阿含経〉』筑摩書房)と。
 美しく、達意の譬喩であると思う。私もインドには二度ほど足を運び、彼の地の旭日を目のあたりにしたことも何回かある。数千年前、釈尊が、この同じ太陽を想い描きながら、弟子たちを前に真理を語っているさまを思うと、感慨もひとしおである。
 釈尊自身は“無師智”といって、師なくして悟ることのできた仏智の人である。 しかし、この覚者は知悉していたにちがいない──。人間とは弱いものである。一人で放っておかれて、正しい道など全うできるものではない。まして悟達など、とうていおぼつかないだろう。
 人間は、だからこそ賢師良友をもたなければならないのだ。厳しい錬磨の叱声を放ち、ときに太陽のような温かい励ましを送ってくれる師、そして友。そうしたよき人びとにつつまれながら、初めて人間は、満足の人生を成就することが可能となる。
 あたかも中天に、燦然と輝きつづける太陽の、こぼれんばかりの笑顔のように。
3  友情の絆は、家族間のつながりや同じ地域に住む者同士の関係とは異なる。血縁や地縁のような、言わば与えられた関係とはちがい、友情とは、みずから求め、進んで作り上げるものであり、互いに努めて磨きつづけなければ先細りになり、やがては消えてしまうものである。
 しかし、なおかつ強く、美しい友情は、ときに、人種や国境を超えた広がりさえもつものである。その意味で、交友関係とは人間の生き方の浅深、主体性、創造性を最も赤裸々に映し出す鏡であると、私は感じている。
 ある著名な文学者が、「なにを言っても誤解されない、というのが本当の友人である」と言っていた。長い交友の過程には、当然のことながら、不信という亀裂の生ずることもあろう。しかし、信頼とは、他に対して先に求めるものではない。相手の人間性の本性への深き信頼感をまずみずからが持ちつづけるうちに、真の友人は得られるであろう。
 仏法は信を根本としている。釈尊の弟子で智慧第一といわれた舎利弗でさえ、信をもって悟りに入った。
 その信を磨くために「善き友」と交われ、と説きつづけた釈尊の言葉は、人間の弱さも強さも知り尽くした、達人の言として私には響くのである。

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