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日蓮大聖人・池田大作

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老修行者の勝利  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  歌には人の心をつなぐ不思議な作用がある。
 若いころから、私は折にふれて音楽に親しんできた。最近では、請われるままに、そのときどきの心情を詩に託したり、ときには曲までつけたりすることもある。
 もちろん、私は音楽に関してはまったくの素人の、一愛好家にすぎない。ただ、心を許し合う友と、心の琴線にふれる歌をしみじみと歌ったり、わが心をピアノに託すとき、互いの胸中の楽器がしぜんと共鳴するのを覚えるのだ。私はこの人間らしい共鳴と交流のひとときを、こよなく大切にしている。
 二、三年前のことだったろうか、知人から、身近な歌で一番好きなものは何んですか、と尋ねられ、「草木は萠ゆる」と答えたことがある。私の創立した創価学園の校歌である。O君という学園の一期生が作詞し、同じ学園の音楽担当の教師が曲をつけたものだ。
  ♪ 草木は萠ゆる 武蔵野の
   花の香かぎし 鳳雛の
   英知をみがくは 何んのため
   次代の世界を 担わんと
   未来に羽ばたけ たくましく ♪
 全部で五番まである。短調の落ち着いた調べのなかにも、未来への飛翔を高らかに謳い上げている。
 旋律もさることながら、とりわけ歌詞の第三節目の「何んのため」との問いかけがいい。それぞれ「情熱燃やすは 何んのため」「人を愛すは 何んのため」「栄光めざすは 何んのため」「平和をめざすは 何んのため」とつづく。卒業式や入学式に列席し、少年たちが瞳を輝かせながら歌っているのを見ると「君たちよ、その清新な問いかけを、生涯忘れないでくれ給え」と念じずにはおれない。
 恵まれた学舎にあって、忘れてならないのは無名の庶民の存在であろう。この歌を聞くたびに私は、学舎を巣立ち、庶民の子として力強く生き抜く青年の尊い姿を感ずるのである。
2  ──その昔、釈尊の弟子に、トクハンという愚かで鈍い老修行者がいた。釈尊は、トクハンの心根が誠実なのを知っていたので、立派な僧になってもらおうと、五百人のアラカンに毎日、教授させた。だが、三年たっても一偈すら覚えられない。
 だれからも笑われるトクハンを哀れんで、釈尊はみずからの前へ呼んで一偈を授与した。
 「口を守り意をおさめ、身に非を犯さず、かくのごとく行ずるもの、必ずさとりを得ん」(前掲『仏教説話文学全集 1』65㌻)と。
 釈尊は、この一偈だけを、繰り返し繰り返し教えた。感激したトクハンは、必死になり、どうにかこの一偈だけはそらんじられるようになった。
 そこで釈尊はトクハンに、その偈の意味を説き聞かせた。
 「身に三悪がある。殺生、盗み、邪淫がそれである。また口に四悪がある。うそを言う事と二枚舌と悪口と偽りかざる事がそれだ。さらに意に三悪がある。強欲といかり怨む事と愚かな事がそれである。これらを併せて十悪業というのだが、(中略)生死流転する迷いの世界も、死んで極楽へ行く楽しみも、地獄に落ちる苦しみも、いっさいの煩悩の境地から離れ悟ることも、ここに由来することを知らねばならない」(同前66㌻)
 こうしてトクハンも、釈尊の慈悲に満ちた教えを固く守ってその身を実行に移し、やがて悟りを究めることができたのである。釈尊はそれを非常に喜び、「学は必ずしも多きを要しない。これを行なうのが最上である」(同前69㌻)と、トクハンの誠実な実践の姿を賞でた。「法句譬喩経」という仏典に説かれている物語である。現代に生きるわれわれにも、少々痛い話ではあるまいか。
3  著名な哲学者、W・ジェイムズは、彼が生涯耳にした数多くの言葉のなかで、一番感銘ぶかい哲学的な言葉は、かつて彼の家の修繕にきていた無学な一労働者の言であった、としている。
 いわく「人間てものは、つきつめてみれば、誰だってほんの僅かしか違うものじゃない。けれどそのほんの僅かばかりの違いってやつがひどく肝腎なことなんだ」(『ウィリアム・ジェイムズ著作集1』〈心理学について〉大坪重明訳、日本教文社)。
 まことに味わいぶかい言葉である。
 まさに、現実のなかで、幾多の風雪を乗り越えて生き抜いた人間の一言は、時に哲学者の言に勝る、万鈞の重みをもつこともあるといえよう。
 私も、庶民の生きた哲学者を数多く知っている。その人たちと語り合い、苦楽をともにしながら過ごす日々こそ、私の最大の喜びである。

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