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日蓮大聖人・池田大作

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六匹と一本の柱  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  近ごろは、子どもたちの世界に、眉をひそめたくなるような事件が多くて、悲しい。
 先日は、小学四年生の女の子が、些細ないざこざから、同じ学校の二年生の女子を、手を縛ったままマンションの屋上から突き落として殺した。親や教師の心胆を寒からしめたショッキングな出来事であり、同じ年ごろの子どもをもつお母さん方は、他人事ならず、心を痛めたにちがいない。
 それほど話題にはならなかったであろうが、小学生同士の殺人以上に私の心を暗くした、一つの調査結果がある。PHP研究所が、都内の小学生約四百人を対象に「子どもの意識と行動」を調べたものである。
 それによると、ステレオやピアノ、ラジコンカー、四人に一人の専用テレビなど、子どもたちがたいへんな物持ちであることがわかる。また半数以上が「もっと遊びたい」と答え“乱塾時代”の世相を浮き彫りにするなど、興味ぶかいデータが並んでいた。
 そのなかで、最も私が驚いたのは「将来の幸せのために必要なもの」の項目で、トップを占めているのが「お金」であるということだ。二番目が「勉強、学業、頭脳」。「心・やさしい気持ち」にいたっては第七位でしかない。以前、高校生の八割近くが「世の中は、金が第一の競争社会」との社会観をもっているという、別の調査を目にしたことがあるが、それにしても黄金の魅力、いや魔力が、小学校低学年にまで、これほど浸透しているとは、夢にも知らなかった。
 しごかれ、尻をたたかれるのは勉強のみで、あとは子どもの欲するままに、親はこれを与える。親はツムジを曲げられるのが怖く、ねだられれば多少無理をしても買い与える。子どもたちが塾通いの合間をぬって、物持ちぶりを競い合っていくのは当然である。それが高じると“ナナハン”まで突っ走る、とある人が言っていた。
 決して、すべてがそうだというのではない。学歴社会を暗くおおう一般の風潮を、私は憂慮しているのだ。いかなる家庭でも、そうした時流の圏外へ逃れることはできないものだ。
 「お金」が幸福の第一、と答えてこともなげな子どもたちの無邪気さ、ある種のふてぶてしさは、その社会の病んだ部分を鋭く、正確に映し出しているように思えてならない。すなわち、現実の社会を動かしているテコは、愛し信じ合う心よりも、金銭や出世へのむきだしのエゴにすぎなくなってしまったのであろうか。
2  仏典に「六匹と一本の柱」の譬えが出てくる。これは、昔、釈尊が舎衛国の西方で、人びとに説法していたときの話である。
 「ある人が、一軒の家に、六匹の動物を養っていた。その六匹の動物というのは犬と、鳥と、毒蛇と、キツネとシツユマラ(ワニの類)と、猿とである。これらの動物は、家の中の一本の柱に堅く繋がれていた。しかしこの六匹の動物は、決して家の中にじっとしていることを欲しなかった。それゆえ自分の好む処へ思い思いに行きたく思っていた。犬は村へ行こうとする。鳥は空へ飛ぼうとする。蛇は穴へ入ろうとする。キツネは塚へ去ろうとする。シツユマラは海へ行こうとする。猿は林へ逃げようとする。彼等は自分の欲する所へ行こうともがくけれども、一本の柱に堅く繋がれているので、結局どうすることもできなかった」(前掲『仏教説話文学全集5』428㌻)
 釈尊は説く。六匹とは、人間の眼耳鼻舌身意の六根にそなわる煩悩、欲望を表している。欲望はかぎりなく対象を求めるものである。すなわち「目は愛すべき色を」「耳は心にかなう声のみを」「鼻は心にかなう香りのみを」「舌はよき味のみを」「身はこころよき肌ざわりのみ」「意は常に心にかなうことのみを」(同前428~429㌻)――。それぞれが争って噴出しようとするが、一本の柱に繋がれていれば不可能であり、官能や欲望に翻弄されることもない。
 ところで、一本の柱とは「身念処」である。
 「身念処」とは、原始経典に説かれた修行方法で、肉体の不浄を清めることといえるのであろうが、釈尊の説いた大乗仏教の真髄は、欲望を断つことにはなく、欲望に支配されぬ境涯の確立をめざしている。
 したがって、この譬えを敷衍すれば、「一本の柱」とは、欲望や官能の嵐に揺るがぬ、大樹のごとき心の柱を意味しているといってよい。日蓮大聖人も、御遺文集のなかで「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と仰せになっている。
3  私の恩師は酒を好んだが、「酒は飲んでも“下郎の酒”は飲んではいけない」と、つねに厳しく言われていた。“下郎”というと言葉は悪いが、要は酒に飲まれるなとの戒めであった。
 お金の場合もそうであろう。哲人ベーコンは「カネはよい召使いだが、場合によっては悪い主人でもある」(梶山健訳)と言っている。
 金や栄誉という「悪い主人」にこき使われる日々では、どんな王侯貴族のような生活をしていても、心の中には寒風が吹き荒れている。そうではなく、自分自身が、みずからの生活の「主人」でなくてはなるまい。言葉を換えれば、真の意味で己に勝つということでもある。それにはどうすればよいのかを、一人ひとりが、社会全体が、真剣に考えなければならないときにきているように痛感されてならない。

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