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日蓮大聖人・池田大作

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難陀への訓戒  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  その点とは別に、私が主人公の努力の経緯で最も関心をもったのは、最愛の息子を奪った犯人に向けられたであろう、言わば「私的」な怨みが、どのようにして被害者補償という「公的」なものにまで昇華されていったのか、との点であった。友人にそれをたずねると、彼は、待ってましたとばかり、脚本の載っている『キネマ旬報』(昭和五十四年九月下旬号)を開きながら説明してくれた。(砂田量爾・木下恵介作『脚本 衝動殺人・息子よ』。以下、カッコ部分は同作から引用)
 犯人は未成年ということで、五年以上十年以下の不定期刑。軽すぎる、しかも遺族への補償はなにもない──憤懣やるかたない父親。しかし、どこにも怒りをもっていきようがない。
 失意と絶望のなかで、慣れない法律書などと取り組んでいたある日、同じような衝動殺人で娘を奪われた一人の男に会う。それを契機に、彼は、自分の工場まで売り払い、余生を賭けた運動に乗り出したのである。妻に語る決意が非常に印象的である。
 「俺あな、武志(=息子)の仇を討つにはつくづくこれしかないと思ったよ。殺した奴、許す気にはとうていなれないが、いつまであんな下らない奴にこだわってちゃ、こっちまで下らなくなっちまうような気がして来た。そう思うと、急にたまらなくなってな。何だか知らないが、時間に追いたてられてるような気がするんだ」
3  友人の感動は、ストレートに私の心を打った。
 たしかに息子を殺された怨みは、そう簡単に忘れきれるものではあるまい。この父親は、当初は、裁判所の廊下で、隠し持った包丁で犯人に切りかかったこともある。だが、「下らない奴にこだわってちゃ、こっちまで下らなくなっちまう」──ここまで心境を開いた、その朴訥な口調に、尊い真実が光っているとはいえまいか。
 私が、ここから学ぶべきであると考えることの第一は、人生において、高い大きな目標をもつことの大切さであり、第二に、そのためにもよき友人、知人に接するよう努めねばならないということである。
 殺人は一つの極限例としても、さまざまな恨みつらみは人の世のつねである。夏目漱石ではないが「とかくに人の世は住みにくい」とこぼしたくなるときもある。
 しかし、ひとたび大きな目標に生きてみると、いままで心に引っかかっていたことが、意外につまらぬことであったと気づく場合が多いといってよい。この父親も、被害者補償という使命を見いださなければ、おそらく絶望のあまり生ける屍のようになるか、自殺するかしていたであろう。目標を発見することによって、それが見事に蘇生する。
4  釈尊には難陀という異母弟があった。
 なかなか俗気が強く、仏道修行に徹しきれない。そこである日、釈尊は、難陀を連れて城下の魚屋の前に行く。かや草の上に置かれた魚が生臭かった。そのかや草を一把手にしてみよ、と釈尊が命ずる。難陀は手に取り、そして捨てる。
 「『手がにおうか』
 『はい、生臭うございます』
 『難陀、それと同様に悪人と交際するとしだいに悪業に染まり、はては悪声を天下に残すようになるのだ。それゆえ悪友との親交を断つがよい。それと反対に善友と交わる時は、名声を得ることができる。あたかも香物を持っていると、その妙なる香気が長く手にあるようなものである』」(前掲『仏教説話百選』275~276㌻)
 釈尊の訓戒にもかかわらず、難陀はまだまだその後も賢兄を手こずらせたらしい。
 それはともかく、お母さん方は、たんなる他人への非難、愚痴や不満を言い合うだけの間柄であってほしくない、と私は念じている。互いに励まし合い、磨き合い、大きな目標に生きるならば、地味ではあっても、社会になんらかの波紋を呼んでいくことはまちがいない。
 映画の父親の一人から始まる運動が、政府をも動かす偉大な潮流となっていったように。

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