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日蓮大聖人・池田大作

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四表の静謐  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  庶民の心というものは、まことに鋭く、人を的確に見抜くものである。偏見に満ちた、いわゆるインテリなどの知恵より、はるかに見事といわなければならない。好きな人物、嫌いな人物──その見分け方は、まことに面白い。たしかに、虚構のうえで、歴史的につくりあげられたことも多いことは、私もよく知っている。しかし、総じての庶民の感覚というものは、決して度外視することはできないものだ。
 テレビドラマの「水戸黄門」は、相変わらず人気があるらしい。スタートして十年、第十部にもおよんでおり、高視聴率は、いっこうに衰えをみせないという。ゲスト出演の新鮮さや、民謡などを織りまぜた場所選びの巧みさもあるようだが、やはり、一番のポイントは、勧善懲悪の筋書きの簡明さに求められるだろう。助さん、格さんを連れて、民を守り悪を懲らしながらの諸国漫遊。ギリギリの勝負どころで黄門さまが身分を明かし、悪人どもが恐れ入る──おなじみの展開である。忙しく、目も疲れるため、最近は、あまりテレビを見る機会もないが、昔ながらの庶民感情の機微は、私なりに理解できるつもりである。
 水戸黄門といえば、恩師の懐かしい思い出がある。談たまたま、哲学のことにおよんだときであった。「哲学は難解」との通説を駁しつつ、恩師は「一番やさしい哲学は、水戸光圀の漫遊記のなかにある」と語ったものだ。 ──ある田舎で、光圀が、おばあさんに水を所望し、かたわらの米俵に腰をかけた。すると、どやされる。その米は自分たちが汗水たらして作った、水戸さまに差し出す米だ、尻の下にしくとは何事、と。光圀は、深く頭を下げて謝った。領主との一体感、信頼感。自分の生業への誇り。このおばあさんは、学は無くても一つの信念があり、哲学がある。「だれがなんと言っても、これだけはどうしようもないというもの。これが哲学である」──恩師の強い語調は、いまだに耳に焼きついて新しい。
 これは封建時代の、多分に美化されたエピソードかもしれない。しかし、そうした逸話が、いまだに庶民の口に語り継がれている事実は、決しておろそかにしてはならないと、私は思っている。裏返していえば「水戸黄門」の人気は、それだけ、現在の為政者と民衆との信頼感が、希薄になってきていることの証左ともいえるかもしれない。
 中国の『礼記』という本に、孔子の言葉として“苛政は虎よりも猛し”とある。苛酷な政治のもとでの苦しみは、虎の餌食になる苦痛よりもはなはだしい、という意味である。
2  最近とんだ人騒がせな事件があった。それは千葉県君津市の虎騒動である。一日も早く決着がつけられ、安穏な日々をとの願いは、すべての人の気持ちであったろう。ところで、苛政のほうはどうか。まさか、虎に食われるのとくらべるわけにはいかないが、日本の政治の実態が、楽観視するにはほど遠い状態にあることも事実である。
 とくに、最近悪名の高い一般消費税などをみると、その感を深くする。言うまでもなく一般消費税が実施されれば、生鮮食料品などごく一部を除いて、すべての商品やサービスに課税される。金持ちもそうでない人も一律に、むしろ、低所得階層ほど負担が重くなる種類の税である。日本の税制には、まだまだ是正しなければならない点が多いにもかかわらず、こうした措置に出るということは、とりやすいところからとれ、の発想といわれても仕方あるまい。
 かつて「貧乏人は麦を食え」と放言し、世論のひんしゅくをかった保守政治家がいたが、為政者はつねに、こうした弱い者を足蹴にして恥じない権力の魔性のとりこになりがちだ。それだけに賢明なる庶民は、政治への厳しい監視を怠ってはならないと思うのである。
 仏法では、この現実社会を「火宅」すなわち火につつまれた家にたとえている。法華経には「三界は安きことなし猶火宅の如し、衆苦充満して、甚だ怖畏すべし」とある。現実世界は「火宅」のように、どこといって平安なところはない。いずこも煩悩の苦しみが充満し、眼を開けてみれば、恐るべき実情にある。その苦からいかに解脱するかを目的に、釈尊は法を説いたのであった。
 しかし、解脱は離脱ではない。よく仏教は煩悩を断ち、現実の苦しみから逃れようとするものと誤解され、また事実、そのような教えを説くものも多い。しかし、真実の仏法は、眼前の苦悩、社会的な矛盾との戦いのなかに、幸福への軌道を探し当てているものだ。そこには当然、政治への関心、監視も含まれてくる。
3  日蓮大聖人の御遺文集にも「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せである。「一身の安堵」とは個人の幸福をいう。それは「四表の静謐」つまり安穏な国土、平和な世界なくしては不可能なのである。
 「四表の静謐」をもたらすには、どうすればよいか。座して“水戸黄門”の出現を待っても、望むべくもなかろう。要は、われわれ一人ひとりが、悪政を許さぬ賢明さを身につけていかなければならないということだ。市井の庶民が、権力にも媚びず、金の力にも妥協することのない強固な信念の人となってこそ、民主社会の基盤は不動となる。 「だれがなんと言っても、これだけはどうしようもない」──多くの庶民の哲学者を思うにつけ、恩師の言葉が胸にささって離れない。

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