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日蓮大聖人・池田大作

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貧人繋珠の譬え  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

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3  “貧人繋珠の譬え”を、さらに広く、そして日常的に解してみたい。たとえば“きめつけ”である。子どもの些細な失敗をとらえ、ただ「ダメな子ね」ときめつける。大人同士でも、ちょっとした諍いから、きのうまで談笑していた隣人が仇のように憎くなったりする。きのう親しき隣人が真実の彼(女)であるのか、それとも、きょうの彼(女)の姿が真実なのであろうか。そんなことはおかまいなしに、感情的なきめつけに走る。売り言葉に買い言葉で、相手もそれに応ずる。“宝珠”の存在などどこへやら、低次元のやりとりを繰り返し、お互いに傷つけ合う。そうした事例は想像以上に多いものだ。 相手の“宝珠”が見えないのは、自分自身の“宝珠”に気づいていないということだ。──ゆえに、互いにこの一点を凝視すべきだと思えてならない。
 子どもや隣人は、ある意味では、自分を映し出す鏡であるといってよい。相手が悪いときめつけてみても、その悪は相手の実像とは関係なく、みずからの命の影の部分であることが意外に多い場合がある。
 吉川英治の『宮本武蔵』(講談社)のなかで、武蔵が少年・伊織に、富士山を眺めながら、次のように語っている。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人が極めてくれる」
 私はこの富士山のようにどっしりと、悠々自適の日々を送っている年配の婦人を数多く知っている。彼女たちの笑顔は、例外なくさまざまな風雪をとおして磨き抜かれた“宝珠”の輝きを放っているものだ。

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