Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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貧人繋珠の譬え  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  死刑は廃止すべきである、と私はつねづね思っている。たしかに、世の中が一定の秩序を保っていくには、法による裁きは、欠かすことができない。しかし、その裁きが円滑に運用されていくには、根底に、人間への信頼感がなければならないと思うからだ。
 日蓮大聖人の御遺文集に「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」と仰せのように、いかなる悪人でも、心の底には人を愛し、人を慈しむ心根を秘めているものである。その点への信頼なくして、どんなに法による規制を強めても、結局は、空転を免れない。ところが、死刑制度は、そうした人間の可能性を、いっさい閉ざしてしまう。人間不信の産物であると思わざるをえないのである。
 だれもが、極悪人でさえもがもっている菩薩の心、さらには仏の心。この点について、法華経には“貧人繋珠の譬え”という譬喩が説かれている。 ──昔、あるところに一人の男がいた。彼には、役人をしている裕福な友人がいる。ある日、男は、その親友の家に遊びに行き、酒や料理のもてなしを受けた。そして、すっかり酒に酔いつぶれてしまう。ところが、親友は急に公用ができて、旅立たなければならなくなる。やむなく親友は、酔いつぶれた男の服の裏に、どんな願いでもかなえられる“無価の宝珠”を縫いこんでおく。眠りこけている男への最高の贈り物をしたのであった。しかし、男は親友から宝珠を贈られたことも知らず、やがて諸国を放浪する身となる。永い歳月が過ぎる。すっかり貧しい身なりで、彼は親友と再会した。驚いた親友に教えられて、彼は初めて自分が、素晴らしい宝珠を持っていたことを知ったのである。
 これは、仏界という尊極の生命の開発を忘れ、低い悟りに満足していた釈尊の弟子たちが、愚かさを反省しつつ語った物語である。
 この尊極無上の生命を“宝珠”もろとも消し去ってしまう権利はだれにもない。しかし死刑においては、あたかも当然の権利であるかのように、国家権力の名のもとにそれが正当化される。その傲慢さゆえに、私は、死刑は無意味である、と主張するのである。
3  “貧人繋珠の譬え”を、さらに広く、そして日常的に解してみたい。たとえば“きめつけ”である。子どもの些細な失敗をとらえ、ただ「ダメな子ね」ときめつける。大人同士でも、ちょっとした諍いから、きのうまで談笑していた隣人が仇のように憎くなったりする。きのう親しき隣人が真実の彼(女)であるのか、それとも、きょうの彼(女)の姿が真実なのであろうか。そんなことはおかまいなしに、感情的なきめつけに走る。売り言葉に買い言葉で、相手もそれに応ずる。“宝珠”の存在などどこへやら、低次元のやりとりを繰り返し、お互いに傷つけ合う。そうした事例は想像以上に多いものだ。 相手の“宝珠”が見えないのは、自分自身の“宝珠”に気づいていないということだ。──ゆえに、互いにこの一点を凝視すべきだと思えてならない。
 子どもや隣人は、ある意味では、自分を映し出す鏡であるといってよい。相手が悪いときめつけてみても、その悪は相手の実像とは関係なく、みずからの命の影の部分であることが意外に多い場合がある。
 吉川英治の『宮本武蔵』(講談社)のなかで、武蔵が少年・伊織に、富士山を眺めながら、次のように語っている。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人が極めてくれる」
 私はこの富士山のようにどっしりと、悠々自適の日々を送っている年配の婦人を数多く知っている。彼女たちの笑顔は、例外なくさまざまな風雪をとおして磨き抜かれた“宝珠”の輝きを放っているものだ。

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