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日蓮大聖人・池田大作

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師子の筋  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

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2  また永年、安楽死の取材をつづけてきた、あるベテラン記者の一文がある。
 「私はだいぶ前から、植物状態からの回復には『その人のお気に入りの肉親の、感情のこもった大きな声』が、非常に有効ではないか──と、実例をもとに、仮説を持っています。そのような呼びかけで、意識──周囲との意志の交換──を取り戻したと思える話が多いことなどからです」(長倉功「安楽死法制化を阻止する会」機関紙・創刊号)と。
 おそらく、植物状態にある生命も、必死に、生きよう、生きようともがいているにちがいない。家族や友人の呼びかけは、苦悶する命への、このうえない励ましを与えるのだ、と私は信じている。まことに声の力は偉大である。
 こうした話を聞くにつけ、私は、安楽死の問題を軽々に扱うことは慎むべきだと、厳しく思っている一人である。いかなる状態におかれても、一縷の光明を求めて、生きて生き抜くことが、生命の本然的欲求なのである。周囲の人びとは、温かく力強い、親身の声援を惜しまないでほしいものだ。
 植物状態とまではいかなくても、世の中には、絶望の暗い淵をさまよっている人は数多い。最近の健康問題への異常な関心の高まりなどをみても、仏法で説く生老病死の苦悩に恐れおののいている人の、なんと多いことであろう。そうした、迷い、閉ざされた生命の硬い殻をたたき破って、生きる力を蘇らせていくのは、一に周囲の励ましによる以外にないのである。
 「大智度論」という仏典がある。古代インドの竜樹という論師の著したもので、大乗仏教の思想を知るうえで、重要な文献であるといってよい。そのなかに、仏の説法を、百獣の王の師子吼になぞらえて述べているくだりがある。
 仏の師子吼とは「死の恐怖から人々を救い、ために悪人は苦悩を感ずるけれども、その苦悩は一時的のものであって、一度苦しめば永遠の楽が与えられる」「その声は微妙なやわらかみがあり、無限の慈悲心が織りこまれているから、聞く者はみな楽しみ、これを耳にする時は、生天と涅槃との二つの楽しみが与えられる」(前掲『仏教説話文学全集 5』95㌻)と。
 仏の説法につつまれた慈悲心の偉大さを宣揚したものである。
 この師子吼の威力について、日蓮大聖人は御遺文集のなかで“師子の筋”の譬えを引いて述べておられる。
 「師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、仏の説法をば師子吼と申す」と。
3  「余の一切の獣の筋」とは、人びとの生命力をそぎ、死へといざなうすべての言語音声といえるかもしれない。荒れすさぶ現在の世の中にも、このような死への誘引は充満しているといってよい。
 しかるに、仏の説法がひとたび響き渡るや「余の獣の筋」がすべて切れてしまうように、悲歌、哀音の類は、いっさい消滅してしまうというのである。あたかも煌々として昇りゆく太陽の輝きを前にした霜露のように──。
 もとより、こうした偉大な説法は、われわれ平凡人が真似のできることではない。これを、より敷衍した次元でいえば、人びとの日常生活の面についても、貴重な示唆が含まれているとはいえまいか。
4  嘆きの友、愚痴の友と一緒になって、不平不満を分かち合うことはやさしい。しかし、そのなかからは進歩的な価値は、なんら生まれてこないであろう。解きゆかんとする最大の課題は、相互の胸中にある。
 声は生命の発露である。
 そこで私は、自分の言葉づかい、さらに声の響き一つひとつが、人びとに歓びを与え、楽しみを与え、生きゆく力をいかに助長させていける楔になっているかということを、つねづね反省したりする日々である。明るい、そして理想に向かいゆく生命力に満ちみちた音声というものは、たとえひとことでも、それを聞く人びとの心の琴線を、ある時は激しくゆさぶり、またある時は大きくつつみゆくことは、まちがいないことを知っているからだ。
 先ごろ、少年補導員の手記を集めた『非行は未然に防げる──ひと声の重み』という本が話題を呼んだ。
 非行に走ろうとする子どもは、かならずなんらかの“SOS”を発している。親がそれを敏感にキャッチし、ひとことでも激励や配慮の言葉をかけてあげれば、大半の非行は防げるというのである。どうかお母さん方は、わが子はもとより、ほかの人びとにも、太陽のような温かい光線を投げかけていける、豊かな生命力の日々であっていただきたいと念じている。

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