Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

良医の反省  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  仏典に、ある良医の話が出てくる。
 ――昔、釈尊が祇園精舎で説法していたころのことである。
 ある国の王様が病気になった。国中のどの医者が診ても回復しなかったが、遠い国より来た良医の治療で病気が治癒した。王の病気が全快し、帰国を許されたものの、なんの謝礼もない。
 “あれほど心をこめて治療にあたったのに”と医者は心の中に恨みをもちながら、家路についた。まもなく家に着くという道すがら、これまで見たことのないようなたくさんの牛や象などがいる。なぜだろう――。
 「『こんなにたくさんの家畜は、いったい何処の誰のものですか。』と聞いた。すると人びとは、『これは、皆あすこのお医者さまのものです。』と一斉にいうので、キツネにつままれたような心地で家に帰ると、自分の家は、広大壮麗な大建築で、床の間を飾り、ジュウタンを敷き、金銀の器をそなえ、自分の妻は、瓔珞を飾ったりっぱな衣服を着けていた。見るものすべてが、はなはだ不思議であったので、彼は、『わたしの家ではない、天宮のようだ。』と、ひとりごとを言った。ややあって彼は妻に向かって、『いったいこのありさまは、どうしたというのだ。』『あなたは、まだなにもご存じないのですか。あなたが国王様のご病気を治して上げられたので、そのご褒美として、こんなりっぱな家や、財産をくだすったのです。』」(前掲『仏教説話文学全集5』)
3  病気を治してもらった恩に報いようとする王様の厚い心と心づかいの財物を知って、医者は有徳の王を恨んだ不明を悔いるのである。まことに「情けは人のためならず」である。とともに私は、この説話から、より深い教訓が学べると思う。
 それは、人情や愛情など、人間同士の心のやりとりにおける無報酬ということの大切さである。「自分がこれだけしてあげたのだから、相手も相応のことを」と、報酬を求める人間関係はどうしても脆い。相手が応えてくれないと、すぐ崩れてしまう。もちろん友人や知人の間で、礼儀が必要なことは当然だろう。しかし、それとても、古今の美しい友情物語などには、どこかに無報酬、無償の絆が秘められているものだ。
 ましてや、夫婦の間、そして親子の関係ともなれば、計算ずくのやりとりでは、とうてい成り立つはずがない。そこに要請されるものは、絶対の信頼関係であり、愛情である。無心に乳を口にふくむ嬰児と母親とのまなざしの交差のように──。ひたすらわが子の健全な成長を願うお母さん方の無償の愛情のように。
4  実際、「焼野の雉子夜の鶴」とは、よく言ったものだと思う。雉子は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身の危険もかえりみず、雛鳥を救おうとする。また巣篭る鶴は、霜の降る夜には、みずからの翼でわが子をおおってかばう、というのである。
 母の愛をたとえるこの諺は、お母さん方の間では、決して死語になってはいまいと、私は信じているのだが──。

1
2