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日蓮大聖人・池田大作

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良医の反省  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  諺というものは、まことに要を得て鋭い。だれかがつくりだしたものか、無数の庶民たちの人生と生活の中から、一つの心の中の集成的凝結の、真実の言葉となったといえるかもしれない。ここに「情けは人のためならず」という諺がある。ある会社で、新入社員にその意味をたずねたところ、十人のうち八人までから「人に親切にしてやったところで仕方がない。それより、自分のことを一生懸命やったほうがいい」という答えが返ってきたそうだ。 ──扇谷正造氏が、ある雑誌に寄せていた小文に出てくるエピソードである。
 私が「うーん」と考えこんでいると、ある婦人が「それならまだいいほうですよ。聞くところによると“他人に情けをかけてあげても、甘やかすだけで、その人のためにならない”と言った若い人がいたそうです」と付け加えた。そこで、私はまた「うーん」と腕を組んだ。前者の気弱で小心なエゴイズム的な解釈と、後者の冷たい誤解と、どちらもよいとはいえまい。
 言うまでもなく、この諺は、人に情けをかけてあげれば、めぐりめぐって、かならず自分によい報いがあるという意味である。『太平記』や『曾我物語』、あるいは世阿弥の『葵上』などにも出てくるというから、古来、人びとに親しまれてきたものであろう。善意や情けは、ときに報いられないことがあるかもしれない。しかし、決して失望してはならない。報いられようと報いられまいと、それを積み重ねていけば、かならず福運となってわが身を飾っていくものと、私は信じているからだ。
 ともかくこれは、素朴な因果応報観に裏打ちされ、人情味豊かな味わいある諺である。ともすれば、利害や打算のみの横行しがちな世の中にあって、こうした言葉は、ぎすぎすした人間関係をうるおす潤滑油の働きさえしていると思うからである。潤滑油を欠いた機械は、たちまち摩擦を生じて機能を停止してしまう。同じように、善意や情けの通い合わぬ社会は、砂漠のように荒れはてた、無味乾燥な世界にちがいない。「情けは人のためならず」といった言葉が、若い人たちの間で死語になりつつあるのは寂しいことだが、そのような事実のなかにも、人情不感症ともいうべき現代社会への警鐘を汲みとることができるのかもしれない。
2  仏典に、ある良医の話が出てくる。
 ――昔、釈尊が祇園精舎で説法していたころのことである。
 ある国の王様が病気になった。国中のどの医者が診ても回復しなかったが、遠い国より来た良医の治療で病気が治癒した。王の病気が全快し、帰国を許されたものの、なんの謝礼もない。
 “あれほど心をこめて治療にあたったのに”と医者は心の中に恨みをもちながら、家路についた。まもなく家に着くという道すがら、これまで見たことのないようなたくさんの牛や象などがいる。なぜだろう――。
 「『こんなにたくさんの家畜は、いったい何処の誰のものですか。』と聞いた。すると人びとは、『これは、皆あすこのお医者さまのものです。』と一斉にいうので、キツネにつままれたような心地で家に帰ると、自分の家は、広大壮麗な大建築で、床の間を飾り、ジュウタンを敷き、金銀の器をそなえ、自分の妻は、瓔珞を飾ったりっぱな衣服を着けていた。見るものすべてが、はなはだ不思議であったので、彼は、『わたしの家ではない、天宮のようだ。』と、ひとりごとを言った。ややあって彼は妻に向かって、『いったいこのありさまは、どうしたというのだ。』『あなたは、まだなにもご存じないのですか。あなたが国王様のご病気を治して上げられたので、そのご褒美として、こんなりっぱな家や、財産をくだすったのです。』」(前掲『仏教説話文学全集5』)
3  病気を治してもらった恩に報いようとする王様の厚い心と心づかいの財物を知って、医者は有徳の王を恨んだ不明を悔いるのである。まことに「情けは人のためならず」である。とともに私は、この説話から、より深い教訓が学べると思う。
 それは、人情や愛情など、人間同士の心のやりとりにおける無報酬ということの大切さである。「自分がこれだけしてあげたのだから、相手も相応のことを」と、報酬を求める人間関係はどうしても脆い。相手が応えてくれないと、すぐ崩れてしまう。もちろん友人や知人の間で、礼儀が必要なことは当然だろう。しかし、それとても、古今の美しい友情物語などには、どこかに無報酬、無償の絆が秘められているものだ。
 ましてや、夫婦の間、そして親子の関係ともなれば、計算ずくのやりとりでは、とうてい成り立つはずがない。そこに要請されるものは、絶対の信頼関係であり、愛情である。無心に乳を口にふくむ嬰児と母親とのまなざしの交差のように──。ひたすらわが子の健全な成長を願うお母さん方の無償の愛情のように。
4  実際、「焼野の雉子夜の鶴」とは、よく言ったものだと思う。雉子は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身の危険もかえりみず、雛鳥を救おうとする。また巣篭る鶴は、霜の降る夜には、みずからの翼でわが子をおおってかばう、というのである。
 母の愛をたとえるこの諺は、お母さん方の間では、決して死語になってはいまいと、私は信じているのだが──。

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