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日蓮大聖人・池田大作

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槻の木の弓  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  すべての人びとが、子どもたちを大切にしていくところから、本来の平和という光が輝いていくものである。それが根本であるとともに、それがいっさいの原点でなくてはならない。
 ところが、「国際児童年」であるというのに、今年(昭和五十四年)はしょっぱなから、子らの社会の悲しくも痛ましい事件が相次いで起きている。過保護の祖母を殺害し、みずからもビルから身を投げた高校一年生。遺された彼のノートには、綿密な殺害計画や異様というしかないエリート意識むきだしの言葉が氾濫しており、子をもつ親たちを慄然とさせた。
 それが口火となったわけではあるまいが、その後、少年少女の自殺の頻発には、目をおおうばかりである。一月のある時期など、わずか三日間のうちに、十二人もの未成年が、あたら未来多き生命を断っている。しかもその大半が、小学生、中学生の、いわゆる“ローティーン”と呼ばれる世代である。ここ数年来、自殺の低年齢化を憂える声は、しばしば聞かれはした。しかし、病勢は想像以上に深く進行しているようだ。
 小学校、中学校時代といえば、長い人生で最も夢多き時期である。万事に好奇心が旺盛で、遊びには目がない。メルヘンや冒険小説の類に想像力をかけめぐらせ、大きくなったらああなりたい、こんなことがしたいと、小さな胸を夢でいっぱいにふくらませている。およそ自殺などとは縁の遠い年代のはずであった。そうした希望の代名詞のような子どもたちが、かんたんに死を選ぶということは、まことに異常事態として深刻に受けとめていく必要がある。 すぐポキリと折れるガラスにも似た脆さ──。それを竹のように柔軟な粘り強さに変えていくために、私は、家庭や学校、広く社会全体が子どもにおよぼす影響、教育効果というものを、根本から考え直さなければならない時期にきていると思う。親や教師である以上、子どもの成長に無関心な人はいないだろう。しかし、その成長の方向が、じつのところどこを向いているかとなると、また別問題である。エリートコースのみをめざす有名校至上主義、成績さえよければ、との考え方で育てられた子どもは、一つの目標の挫折が、そのまま死へとつながりやすい。積雪の重みにじっと耐え、はね返し、やがて春の陽光を浴びつつ、すくすくと成長していく竹のような力は、そこからは決して生まれてこない。
2  私の信奉する日蓮大聖人の御遺文集のなかに、槻の木の弓にまつわる逸話が出てくる。 ──ある父子があった。父は子の将来を思うがゆえに、学問修行に励もうとしない子どもを、槻の木の弓で打つなどして教え込んだ。そのため子どもにとっては、父親の態度は無情そのものであり、とりわけ槻の木の弓が憎くてしかたがなかった。しかしながら、そうして励んでいるうちに、学を積み道を究め、とうとう他人に利益を与えることのできるまでに成長することができた。振り返ってみるに、自分がここまでこられたのは、父が槻の木の弓で打ってくれたおかげである。そこで子は、槻の木で塔婆を作り、亡き父への供養にしたという。
 この逸話は日蓮大聖人が、法華経の恩ということを、槻の木の弓に譬えられたものである。それと同時にこの譬喩は、家庭教育、学校教育、社会教育一般にも通ずる教訓を秘めているのではなかろうか。
3  私は、スパルタ教育を宣揚しているのではない。むしろ逆である。子らの成長していく過程には、多くの試練が待ち構えている。受験はもとより家族や友人関係など、一波も二波もかぶって社会人として巣立っていく。試練はときに、槻の木の弓で打たれるような辛さに思えるかもしれない。しかし彼らは、そのような困難を乗り越えていく力を、本来的にもっているものだ。そしてやがては、試練を与えてくれたものに感謝するにいたるであろう。
 もしその力が発揮されないとすれば“弓”の与える試練のほうに、どこか狂いがあるからである。めざすは受験一本で、その他は放任しっぱなしの家庭。成績の上下がそのまま人間の評価に直結しかねない学生生活。遊びや喧嘩のなかから人間社会の常識やルールを身につけていくことを知りながら、おおらかな遊び場を奪い、道路からも追放し、テレビっ子にしてしまう社会。やや極端な言い方になるが、子どもたちはそうした大人の世界が、彼らの健全な成長を願う愛情ではなく、自分たちの都合だけで動いていることを、本能的に感じとっているにちがいない。些細な理由による自殺は、それらのことへの無言の抗議のように思えてならないのだ。
4  昨年の夏、話題を呼んだ映画に「キタキツネ物語」がある。
 観てきた友人たちが、一様に最も感動的なシーンとして語ってくれたのは“子別れ”のところであった。その一人は、「キツネの社会でさえ、あれほど苦労して育てあげた子どもを、一本立ちさせようとして必死なのですから、人間たるもの、父親も母親も、もう少し考え直さなくてはいけませんね」と語っていた。私も、深くうなずき返したものであった。もはや、私たちは、今日の異様さに鈍感であってはならない。未来は、確実に私たちに重大な警告を発していると思うからだ。

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