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日蓮大聖人・池田大作

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雪山の寒苦鳥  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  冬来たりなば春遠からじ、という言葉を聞くと、私は胸の温かくなりゆく感じがしてならない。ともかく、冬はかならず春となる。
 雪の鎧を着たアルプスの山々、遠くは純白の衣につつまれたようなヒマラヤの山々を連想するのは、私一人ではあるまい。
 “雪山の寒苦鳥”の故事があることで有名な『鷲林拾葉鈔』という尊舜の作がある。これはインドの釈尊が説いた最高の哲理の経典である「法華経」の注釈書として、よく知られるところである。 ──その昔、インドに雪山という山があった。
 たいへんな高山のため、骨の髄まで染み透るほど寒く、その名のとおり、一年中雪の消えることがなかった。そこに、寒苦鳥という名前の宿無し鳥が住んでいた。夜になると寒さに耐えかね、雌鳥が「殺されそうだ」と鳴く。すると雄鳥が「夜が明けたら巣を作ろう」と応ずる。ところが、朝日が昇ってくると、その暖かさに夜間の苦しみもどこへやら、「きょう死ぬかも知れず、あす死ぬとも知れぬ、無常の身、安穏のための巣作りなんて」と言って怠った。こんなことの繰り返しで、一生虚しく過ごしていったという。
2  なにやら“蟻とキリギリス”の故事に似かよった話であるが、きょうあすとも知れぬわが身なのに、なにをあくせく──と知ったかぶったこの言葉に、寒苦鳥の哀れさを感じてならない。ところでこの教訓、どうやら人間性の痛い側面をえぐっているようにも思えてならない。いっぱし虚勢を張って生きていても、いざというときにメッキのはがれてしまうようなことは、意外に多いものである。どんなに平穏無事にみえる人生であっても、人知れぬ悩みや苦しみはかならずあるものだ。
 また寒苦鳥のように毎夜毎夜ではないにしても、人生というものは、一生のうち何回、いや何十回かは、一本の棒を頼りに、十丈二十丈の堀を越えなければならないときがあるものだ。退却するか溺れ死ぬか──まぎわになってあわてふためいても、取り返しがつかない。寒苦鳥のように悲鳴をあげるのが落ちである。
 一本の棒とは、確固たる信念、どんな困難に直面しても狼狽しない安定した心である。寒苦鳥の作るべき巣とは、暖かな栖であると同時に、そのような安定した心の定まる場所、楽しみに流されず苦しみに負けない性根のすわりどころを示唆しているとはいえまいか。“寒苦鳥の轍”は、移ろいやすき人間のつねの心である。いまやっておかなければ、という当面の課題を避け、安易に流される人間の性でもある。 根無し草のごとく波の間に間に生きるか、確固たる人生を生きるか──私はここに、人生を価値あらしめるかどうかの鍵があるように思えてならない。後者の人生を選ぶとすれば、心に深く強き芯が必要であろう。そのためにも、わが心を鍛える努力、習慣を怠ってはならないと主張する一人である。
3  たとえば読書がある。良書に接しゆくことは、さわやかさのなかに進歩的に拡大しゆく精神を鍛えるうえで、欠かすことのできない要因の一つであると思っている。
 読書が、テレビなどの映像メディアと決定的に異なるのは、すすんで読もうとしなければ、活字を友とすることはできないという点にある。テレビならば、ぼんやり見ていても画面は勝手に展開されていくが、読書はそうはいかない。もちろん、惰性で読みとばせる種類の本もあるが、少なくとも精神に糧を提供してくれる本は、それなりに読者の心構えを要求する。
 イギリスの思想家ラスキンという人は、良書に親しむための心得を、鉱夫の作業にたとえている。「自分のつるはしやシャベルは、整備ができているか。また、自分自身の準備万端は、よろしいか。袖はきちんと肘までまくってあり、呼吸は、精神は、尋常であるか」(「ごまとゆり」木村正身訳、『世界の名著 41』所収、中央公論社)と。こうして周到な用意をして、彼は岩盤に挑み、めざす金属を求めてつるはしを振るいつづける。金属、すなわち著者の心琴、意図するところに到達するには、じつに忍耐強く、細心な努力が必要であるというのである。
 たしかに私もそのとおりであると思う。ラスキンはなにも、読書の量や時間の多寡を論じているのではない。家事や育児その他に忙しいお母さん方に、多くの時間を割けといっても、とうてい無理な相談である。そうではなく、たとえ一日に二十分でも三十分でもよい、良書に接する機会をもつ習慣があれば、どんなに人生が豊かになり、精神が鍛えられるかを言いたいのである。事実、彼は大英博物館の本を全部読んでも無教養な人もいれば、たとえ十ページでも、良書を一字一字正確に読むことにより、真の教養人になることができる人もいる、と述べている。
4  まことに“一書の人を恐れよ”とあるとおりである。
 老いてなお、輝くような魅力をたたえている人は、つねに自身を鍛える努力と向上心をもちつづけているものである。私の人生の師であった戸田城聖先生は、生前よく「心に読書と思索の暇をつくれ」と言っておられた。世のお母さん方にお願いしたいことは、忙しいなかにも、どこか心に余裕をもった日々であってほしいということである。そして、この尊い人生の輝きを増しゆくために良書、とくにみずからの“一書”といえるものに親しんでいっていただきたいと念じている。

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