Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

貧女の愛  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  人生というものは、楽しいよい思い出、悲しい思い出、苦しい思い出の連続の、精神的ドラマといってよい。しかし、嫌な思い出というものだけは、だれびとも早く忘れ去ってしまいたいものだ。
 たとえば、みずからの醜いエゴイズムで、心ならずも相手を傷つけてしまったときなどは、自分が嫌になり、一日も早く記憶の底から消え去ってもらいたいと思うものである。これらの自己嫌悪の感情を乗り越えていくには、詮ずるところは、小さな自分を乗り越えて、大きな境涯を開いていく努力以外にはなさそうである。
 しかし、それとはちがって、嫌な思い出であったとしても、絶対に忘れてはならない種類のものもある。戦争などがそれである。私も第二次世界大戦で、一家の柱であった、いまだ独身の長兄を二十六歳で亡くし、大空襲の火の中を逃げまどい、老いたる母親に頼りながら、苦難の時代を乗り越えてきた一人である。すべての人の心はすさんでいた。そして、エゴとエゴとが、あちらにもこちらにも、火花を散らすような、地獄の人間界であった。
 この戦争というものの悲惨な体験だけは、絶対に風化させてはならじ、と心に秘めている昨今である。
2  いま、私の手元に『銃後の婦人』(第三文明社)と題する一冊の本がある。それは「創価学会青年部反戦出版委員会」の方々の手によって、編纂されたものである。戦争を知らない、若い私の弟子たちが、全国に走り回り、戦争体験の悲惨さを、後世に残しゆくために作業を進めた、その一冊である。
 このシリーズは、すでに四十七余冊におよんでおり、各方面から、この大規模な企画に対して、賛同の声が寄せられている。そして、この『銃後の婦人』には、大阪方面の婦人たちの、戦中戦後の困苦が語られているのである。生々しい平和への叫びは、三十年余の歳月をまったく感じさせず、リアルそのものである。私は、老いも若きも、たまにはこうした本を手にして、戦争と平和というものを、肌で感ずる必要があると思っている。
 かつて夏目漱石は、赤貧の農民生活を描いた長塚節の『土』に寄せた序文のなかで「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になったら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」(新潮文庫)と述べたが、私も同感である。とくに戦争を知らない世代が増えているだけに、その感が強い。
 それにしても、銃後の婦人たちの戦いはすさまじい。
 戦火の海を逃げまどい、気がつくと背中の子どもは大火傷、手当てのかいもなく死んだ子を背に和歌山の実家へ急ぐ婦人。自分の目の前で夫の頭上に焼夷弾が落下、火の玉のように身体全体がボーッと青く燃え上がるのを、臨月のおなかを抱えながら、どうしようもなく見守っていなければならなかった人。戦争が終わって平和の光がさすよう、生まれてくる子どもが女だったら“光代”と名づける予定だったという。
 またある婦人は、熱風と煙に巻かれて意識もうろうとなりながら、わが子を用水池へ。自分は窒息寸前のところ「お母ちゃん死んだらいや、死んだらいや」との叫びにハッとわれに返り、死力をふりしぼって生きのびる。のちに夫から「こんなとき男親はダメだ。自分が逃げるのが精いっぱいだった」と讃められた、とあった。私は戦争の悲惨さとともに、そんななかでも必死に生き抜いていく母親というものの強さと偉大さを、あらためて知る思いであった。
3  「涅槃経」という経典に“貧女の愛”ということが説かれている。
 ──あるところに貧しい女人がいた。天涯孤独の身で、家すらない。病苦や飢えに責められながら、乞食をしながら諸国をさまよう。とある客舎で父なし子を産む。客舎の主人は貧女を追い払う。産後まもない身でありながら、嬰児を抱き他国へ向かう。その途中、風雨激しく寒さも厳しい。蚊や虻、蜂、毒虫のたぐいが容赦なく襲いかかる。河を渡ろうとしてみずから溺れかかるが、その期におよんでも子どもを手放そうとしない。ついに母子ともに溺れ死んでしまったという。
 釈尊はこの例をとおして、正しい法を護持する精神は、死に臨んでもわが子を抱きかかえていた、貧女の愛念の心のようでなければならない、と説いている。無私の愛、あるいは無償の愛といってもよいだろう。そうした捨て身の生き方には、計算ずくではないある人生の真実、日蓮大聖人が「母の子を思う慈悲の如し」と仰せのように、仏法で説く慈悲の精神にも通ずる深さがうかがわれるようだ。
 私が『銃後の婦人』を読んで感じたのも、そのことであった。
4  母親の強さといえば、私は、スタインベックの『怒りのぶどう』を思い出さずにはいられない。このアメリカの世界的な名作は、ご存じの方々も多いにちがいない。
 生活の重みに耐えていくことができなくなった父親が、もう一家も終わりだ、と愚痴をこぼすと、“おっかあ”と呼ばれる逞しい母親は「終わっちゃァいないよ、お父さん」(大橋健三郎訳、岩波文庫)と、厳しくたしなめた。
 男というものは、断崖の節々で生きていくものである。しかし、「女ってものは始めから終いまでが一つの流れなんだよ、川の流れみたいにね、小さな渦巻があったり、小さな滝があったりするけど、それでも、川はどんどん流れていくのさ。女はそういうふうにものを見るんだよ。あたしたちは死に絶えやしない。人間は続いていくんだよ──」(同前)
 ここに母という、女性という偉大な哲学の叫びがあった。この文章を読むたびに、私は母というものの偉大さを、まことに絶妙の文章に残していった、スタインベックの深い洞察に、喝采を送りたくなるのである。

1
1