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日蓮大聖人・池田大作

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帝釈天と雛鳥  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  観察といえば、ファーブルの『昆虫記』を思い出す人も多いにちがいない。私も若いころ、このファーブルの本を読んで、鮮烈な印象をうけた一人である。
 その書の冒頭を飾りゆく「聖たまこがね」の“団子作り”“団子転がし”のところの描写などは、まことに精彩を放ち輝いている。 あの山にも、この山にも、若芽が萌え躍る春──。あちこちに昆虫を求め歩く少年たちの探検行が目に浮かぶ。小川には「めだか」や小さな「ふな」がいるだろうか。牧場には「つばめ」が、砂岩には「とかげ」が、そして海からは「かもめ」が群れをなして、飛び舞っている。楽しい大きな空想に胸ふくらませゆく、若き自然の王子・少年たちの早朝のひととき。そこにはファーブルと仲間たちが、自然の織りなす多彩なドラマに、好奇心と想像力のかぎりを尽くす様子が活写されている。
 この有名な『昆虫記』が、初めて世に出たのは、ファーブルが五十歳を過ぎてからであると聞いた。その長き間、彼の自然との付き合いからは、いかに幼いころの経験が大切であったかがうかがえる。
 自然界の絶妙な仕組みへの驚き、鋭い観察眼、飼育に要する忍耐と濃やかな配慮、生死にまつわる喜びや悲しみの情。──それらの芽は、すべて幼少年時代の経験に発しているといっても過言ではない。そして、そうした精神的財産は、自然にかぎらず、人間社会を生き抜いていくためにも、非常に大切な要素になっていくと、私は思う。
3  仏典には“帝釈天と雛鳥”の譬えが説かれている。
 その昔、“帝釈”の軍が“阿修羅”の軍と戦った。戦い利あらずして、帝釈軍は全軍が敗走して“須弥山”のふもとにある林道に来たとき、そこに“金翅鳥”の巣があった。進めば鳴いている雛鳥を車でひき殺してしまう。背後には阿修羅軍が迫っている。雛鳥をひき殺してはいけない……と決意した帝釈は、軍を返し、敵に向けて突進する。
 驚いたのは阿修羅軍であった。敵の突然の変貌を目にして、策略があると恐れて、にわかに退却を始める。いったん臆病風が吹き始めるとあとは浮き足だち、本陣に逃げこんでしまった。こうして帝釈軍は大勝利を博したのであった。
 まことに単純な話であろうが、人生において小さな思いやり、些細な物事への配慮の大切さを、よく示していると思う。それは小さいようで決して小さくない。一事は万事に通じ、小事こそ大事を成す礎であることの示唆であるといってよい。
 波瀾と曲折に富んだファーブルの生涯の晩年のことである。──彼は生活苦の荒波に襲われてしまった。その老ファーブルに対して、“ファーブル飢ゆ”の報は全世界に走り、資産家から無名の庶民にいたるまで、多くの寄金が寄せられ、老学者を感動させるほどであった。
 学問的業績への愛情とともに、彼が生活のすべての面で“雛鳥”を慈しむ心情の持ち主であったからであろうと、私は推測している。彼は寄贈されたお金はすべて送り返し、匿名のものは、地元セリニアンの貧しい人びとに分かち与えたという。(『昆虫記』山田吉彦訳、岩波文庫、訳者の「ファーブル略伝」による)
 私は理想論を述べているのではない。
 たしかに今日の大都会の子どもたちに、ファーブルのような豊かな自然との接触を望んでも、無理な話であるかもしれない。ただ、私は自然であれ、人間関係であれ、物事に直接にふれていくことを通しながら、子どもたちは大宇宙の運行とともに、しぜんにスクスクと成長していくのではないかと、申し上げたいのである。打算多き大人たちには、その真理がわからないのである。まことに残念なことだ。
 人間というものと、自然というものとの交わり、また人間と人間との繋がり、それらにもまれながら、子どもはおのずから社会人としての礼儀とか節度とかを、身につけていくのである。子どもの相手は昆虫や草花であったり、友だちであったりする。
 しかし、なんといっても幼年期、少年期における主役はお母さん方である。かまいすぎるのもよくないが、たとえば、子守りはテレビに任せっきりにするような愚も避けたいものである。
4  松田道雄氏は、話題を呼んだ「こどもをテレビから守る」という一文で、テレビが子どもの主役になってしまうことを憂え、「幼児が、母親から庭の花をふんではいけないと注意されたすぐあと、テレビで怪獣が大都市をふみつぶすシーンをみせられる」(『暮しの手帖』五十六号掲載、昭和五十三年十月一日発行)ことの危険を指摘している。
 私はかならずしもノー・テレビ論者ではない。しかし“雛鳥”を大切にする人間に育てるためにも、お母さん方は、子どもとの繋がりや躾の面での主役であるとの自覚だけは、失ってほしくないと思っている。

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