Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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心の鏡の“明昧(みょうまい)”  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
3  日蓮大聖人の御遺文集に、次のような一節がある。
 「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り」
 「我が心の鏡」とは無明(昧)、すなわち迷いである。「仏の心の鏡」とは明、悟りである。迷いの心、悟りの心といっても、決して別々のものではなく、一つ心の裏と表にほかならない。心が裏返しになっていたならば、物事の真実は見抜けないであろう。夫の立場を思いやる余裕や優しさも生まれまい。
 子どもを育てゆくうえにまで、自分自身の感情や好みや見栄というエゴで曇った目でしか、愛するわが子が見えなくなってしまうからである。ちょうど鏡の裏面になにも映らないように、裏返しの心の鏡には、独立した人格としての夫や子どもの姿が映し出されることはない。夫や子どもへの愛情も、自分自身の一部に注がれてしまっているであろう自己愛にすぎないからである。
 お母さん方には、ずいぶん厳しい注文になってしまった。しかし、夫の立場も同じことである。申し上げたいことは、互いの非を鳴らす前に、まずわが心の鏡の“明昧”に思いをめぐらすべきではないか、ということに尽きる。それには、何が一番大切なのであろうか。
 最近放映されたNHKの連続テレビドラマ「夫婦」は、たいへん評判を呼んだらしい。二人の息子、一人の娘も独立し、残された五十六歳と五十二歳の夫婦に忍び寄る心の隙間風。妻の家出、そして団円。私は忙しくて観賞できなかったが、ある婦人のもたらした感想が、非常に印象に残った。
 「結局、夫婦で共通の目標をもつことではないでしょうか。それもマイホーム的なものではなく、なにかのかたちで、社会に貢献していけるような」と。

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