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日蓮大聖人・池田大作

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心の鏡の“明昧(みょうまい)”  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  よく私の恩師は、若いうちに古典を読め、すぐれた小説を読め、と厳しく言われた。いわゆる興味本位の週刊誌を読んで、それだけでこと足れりとするような人間にはなるな、というのである。
2  山本周五郎の小説は、いつも温かくさわやかな読後感を与えてくれた。いつの日か読んだ『樅ノ木は残った』では、武士というものの生き方の峻厳さと苦悩に心打たれた。また、最近、橋本左内の最期を描いた『城中の霜』を読んだときも感動した。すなわち、命を捨てるとは、安易な死の賛美ではなく、じつは命を惜しむということと、表裏一体である。まことにまことに、生命の尊さについて、かくも訴えきっていた。
 氏の作に、夫婦の愛情を扱った『柘榴』という小品がある。厳格な家庭に育てられた主人公の真沙は、うら若き乙女の十七歳のとき、家の格でははるかに下の青年と結ばれた。その男の家は、昔は中老格であったようであるが、さまざまな不始末がたたって、いまは平徒士という落魄の身になりさがっていた。
 それらの境遇への焦りと、生まれついての性格もあいまって、その男は真沙を溺愛する。「おれはいつまで平徒士ではいないよ」「みておいで真沙、おまえをきっと中老夫人にしてみせるよ。世間へ出て恥ずかしくないだけの生活を、おれは誓って真沙にさせてみせるよ」(『山本周五郎小説全集 24』所収、新潮社。以下、カッコの部分の引用は同じ)
 そうした愛情は、若い真沙には、逆に戸惑いと苦痛をもたらした。夫の熱愛が、かえって嫌悪の情をそそっていった。悪いと思いつつも、どうにもならない心の葛藤。やがて半年にして破局が訪れる。夫の焦りが公金の使い込みを招いてしまったのである。
 厳しい追捕の目をくぐって、夫の姿は消え去っていった。真沙にあてた一通の手紙に「赦して呉れとは云わずに去るが、ただゆくすえ仕合せであるように祈ることだけは許して貰いたい」との言葉を、そっと残していった。
 真沙は母方の親戚の家に落ち着き、御殿勤めに上がる。さまざまな苦労と経験を積みながら、人の心というものの表と裏を知りつつ、三十五歳で“老女”の役に落ち着いていったのである。
 真沙の心に少しずつ変化が生じてくる。
 ある日、ある時、知り合いの夫婦の、ある仕草に接して、初めて真沙は、自分の結婚生活を回想するのであった。二十年近く前、夫の示した愛情の表現は、苦痛でしかなかった。しかしながら、いま思うとき、またそれなりに真実であったということが、感じられるようになったのだ。若いがゆえの愛の表現の稚拙さであったのであろうが、彼にしてみれば、それ以外に表しようのないものであったにちがいない。 「彼女の心にひとつの世界がひらけた」──それは心の奥から涌き出ずるがごとく、消しがたい悔恨の情といってよかった。胸は痛く、「なんということだろう」と真沙は、両手でみずからの顔を掩ったのである。
 その真沙とその夫との、美しくもまた悲しき再会を描いた後半は、割愛させていただく。私は一読して、人間の心というものの微妙さを思い知った。人の心ほど移ろいやすきものはないが、その深さも掘り起こせばまた無限に深い。
 若い夫婦といえども、いまだ互いに未熟な人間同士であるといってよい。互いに理解し合い、また許し合う、人間としての度量がなければ、愉しみの、そして忍耐のうえの愛情の生活は営んでいけないものだ。それには、夫も妻も、みずからの心を鍛えるという努力を忘れてはならないのであろう。
 「彼女の心にひとつの世界がひらけた」との言葉は、真沙が二十年近い歳月の重みに支えられて、大海の深さにも似た心の深淵さを見いだしたことを表している、といえるのではなかろうか。
3  日蓮大聖人の御遺文集に、次のような一節がある。
 「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り」
 「我が心の鏡」とは無明(昧)、すなわち迷いである。「仏の心の鏡」とは明、悟りである。迷いの心、悟りの心といっても、決して別々のものではなく、一つ心の裏と表にほかならない。心が裏返しになっていたならば、物事の真実は見抜けないであろう。夫の立場を思いやる余裕や優しさも生まれまい。
 子どもを育てゆくうえにまで、自分自身の感情や好みや見栄というエゴで曇った目でしか、愛するわが子が見えなくなってしまうからである。ちょうど鏡の裏面になにも映らないように、裏返しの心の鏡には、独立した人格としての夫や子どもの姿が映し出されることはない。夫や子どもへの愛情も、自分自身の一部に注がれてしまっているであろう自己愛にすぎないからである。
 お母さん方には、ずいぶん厳しい注文になってしまった。しかし、夫の立場も同じことである。申し上げたいことは、互いの非を鳴らす前に、まずわが心の鏡の“明昧”に思いをめぐらすべきではないか、ということに尽きる。それには、何が一番大切なのであろうか。
 最近放映されたNHKの連続テレビドラマ「夫婦」は、たいへん評判を呼んだらしい。二人の息子、一人の娘も独立し、残された五十六歳と五十二歳の夫婦に忍び寄る心の隙間風。妻の家出、そして団円。私は忙しくて観賞できなかったが、ある婦人のもたらした感想が、非常に印象に残った。
 「結局、夫婦で共通の目標をもつことではないでしょうか。それもマイホーム的なものではなく、なにかのかたちで、社会に貢献していけるような」と。

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