Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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溺れ死んだ猿の群れ  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  昔、釈尊が霊鷲山で説法した。
 「ある処の海辺に、数十里にわたる樹木があった。そこに五百余頭の猿がすんでいた。あるとき、雪山のごとき形をした高さ数メートルの白い波が海面に現われ、それが潮流の加減で、海岸にやって来た。猿どもはこれを見て大いによろこび、『われわれがこの山頂に登って、東西に遊ぶのも、また楽しい事ではないか。』と、ともどもに語りあっていた。
 そのとき、一匹の猿は、すばやく雪山とも見える多くの白い波しぶきの上に飛び乗って、たちまちのうちに水底に没してしまった。岸で見ていた多くの猿どもは、彼が山中から姿を見せないのは、沫山の中が、快楽きわまりないからであろうと言って、みなあらそってその中へおどり込んではいり、一時に溺死を遂げてしまったということである」(前掲『仏教説話文学全集 5』326㌻)
 「雑譬喩経」という経典に説かれている物語である。
 釈尊は述べている。「この海とは生死海である」と。ここでいう生死とは、苦しみというほどの意味である。海面に躍る白波ははなやかで、快楽そのものと映るかもしれない。しかし、それは蜃気楼のようなものだ。幻に目を奪われているかぎり、待っているのは苦しみのみである。砂漠で蜃気楼を追うような、空しい人生であってはならない。真実の幸福を求めて、まず足元の“一歩”を大切にせよ──こう釈尊は説くのである。
 愚かな猿の轍を踏むな、との釈尊の戒めをかみしめたい。大学生諸君を猿などに擬しては恐縮だが、決して他意はない。教育の原点は知識の豊富さや、まして学歴の取得などにあるのではない。それのみで、精神が空白状態であれば“白波”に幻惑され、翻弄されゆく姿であり、人生の溺死へと通じていく。大事なことは、人間として、自分らしき確たる地歩を築くことである。
 子どもには“幻”を教えるのではなく、人間の真実を教えることである。平凡ななかに、人生の尊さがあることを、知らしめることである。友情、忍耐、勇気、情緒、感謝といった心の豊かさを啓発していかなければならない。心の貧しさほど、青年にとっての不幸はないからである。──まさしく、人間教育こそ、教育の原点であるといってよい。
3  昨年(昭和五十二年)上半期の芥川賞を受けた三田誠広氏の『僕って何』(河出文庫)は、そうした現代青年の心の世界を、赤裸々に映し出した佳作であった。
 主人公は地方から上京したある大学の新入生。郷里にいるころは、身の回りのことはすべて母親まかせで、さしたる悩みもなく過ごしてきた。上京の解放感をふさぐかのように、入学式を見についてきた母親は、下宿探しや衣類、台所用品の購入に走り回る。店頭での母子のいさかい、喧嘩別れ。しかしそれは、自分を自分と認めてくれる人と接した最後でもあった。 取り残された主人公は、キャンパスでつぶやく──「ここにいる僕とは何だろう」。
 小説では、この主人公が行きずりの石にでもつまずくように、学生運動のセクト争いに巻き込まれていく様子が描かれている。「僕って何」の空白感は、いっこうに解決されないままに。
 この「僕って何」の問いかけに答えるものは、なによりも親の姿であろうと、私は思う。言葉ではなく、姿である。最初、まなざしは自分というより、親や社会に向いている。再び自分に向くのは、大人たちの鏡を通してであろう。立派な親の生き方に接して育った子どもは、かならずこの「僕って何」の壁を乗り越えて、見事に成長していくにちがいない。

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