Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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“病子”への愛情
「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)
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このエピソードには、仏法で説く慈悲の真髄が鮮やかに示されている。とともに私は、真実の親子の愛情のあり方にも、非常に示唆するところが多いと思っている。
なぜ病子が一番気になるのか。彼が、自立し活躍していくうえで、最もハンディを背負っているからである。病は肉体的なものとはかぎらない。甘え、臆病、意志薄弱などの精神的欠陥の場合もあろう。ともかく、親の愛情というものは、健全な者より“病子”がどう立派に、独り立ちしていくかに注がれるにちがいない。
こうした人間の心は、親子関係を超えて社会一般にも通ずることであろう。社会にも“病子”は多い。それをどう救うか──古来、宗教の存在意義はここにあったといってよい。
私の恩師はよく語ってくれた。
それは飢えた人に一片のパン、一袋の米を施すのもよいかもしれない。しかし、それだけでは、依存心を増すだけに終わりかねない。肝心なことは、それらの人びとがどう自立し、生命力強く生き切っていけるかだ。宗教は、その点に鋭く目を向けなければならない、と。
桜の話が、親子の愛情のあり方にまで発展してしまった。しかし、両者はどこかで、根と根を通じあっているように思えてならない。
自分たちだけが楽しみ“あとは野となれ山となれ”式のエゴ。子どもすべての自立心を育てようとせず、自分の子どもだけの未来の願望のみに投影しようとするエゴ。近ごろは、子どもをあまりにも甘やかし、なんでも好きな物を与えて、わがまま放題に育てあげたあげく、結局は、子どもの心が離れ去り、親が裏切られていく悲しき話を、耳にすることが非常に多い。
私には、その荒れはてたわびしき心の世界が、美しき桜の花とはなぜか対照的な、匂う桜と紙の散乱と、二重写しになってしまうのである。
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