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日蓮大聖人・池田大作

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弾琴の譬え  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  私は二回ほどインドの地を訪れたことがある。そこには、仏教を学ぶ深いにおいがあった。私はインドが大好きである。
 慈悲の仏といわれた釈尊という人は、よほど対話の達人であったらしい。つねに人びととの語らいのなかにあって、相手の思い悩むところを素早く汲みとり、平易な譬喩を借り、言葉の韻律により、巧みに心を解脱の高みへと導いていった仏様であった。
 あるときなどは、一言も発せず、容貌のみで相手を説得してしまった。釈尊に軽侮の念を抱いていた人びとが「釈尊が来ても、だれも立って迎える必要はない」と、あらかじめ打ち合わせておいたにもかかわらず、彼の容姿を目にすると、しぜんに立ち上がってしまったという。
 “目は口ほどに……”ならぬ“姿は口ほどに物を言い”である。一般に「相好説法」と呼ばれている。釈尊の言葉づかいや振る舞いににじみでる、深い人格より発する知恵の発露であろう。
2  「増支部経典」という仏典には、こんな話がある。
 釈尊の弟子にソーナという青年がいた。裕福な家の出で、性格も明るく聡明であった。出家してからも、人一倍の精進努力を怠らなかった。にもかかわらず、悟りはいっこうに開けてこない。憂いは迷いを呼び、迷いは苦悩を増す日々であった。やがて彼は、昔の面影など見る影もなくやせおとろえてしまう。
 そんなとき、釈尊が彼の家を訪れる。ソーナが琴を弾くのが上手なことを知っている釈尊は、それを巧みに譬えとして援用する。
 「ソーナよ、琴を弾ずるには、弦をしぼりすぎると、妙なる雅やかな音が出るだろうか」
 「世尊よ、それは出ません」
 「では、弦を弛くすれば、そのような音が出るであろうか」
 「世尊よ、やはり出ません」
 「それでは、弛くもなく、しぼりすぎでもなければ、微妙にして雅やかな音が出るであろうか」
 「世尊よ、おっしゃるとおりです」
 「ソーナよ、この仏道修行においても同じことがいえるのである。急激な精進は心が不安定で身につかない。弛すぎる精進でも、怠惰な心にとらわれてしまう。ソーナよ、どちらにも偏らず、調和をとって修行に励むべきである」
3  いわゆる“弾琴の譬え”である。
 釈尊はここで、苦行主義と快楽主義の、どちらか一方に偏ることなく、たえず「中道」を歩んでいくいき方を宣揚している。それは「苦しみ」も「悲しみ」も、ほどほどでよいのだという、中途半端な哲学でも、指針でもない。より深い次元から、苦楽に紛動されることのない、大地のように盤石な心を築き上げるのが先決だというのである。
 してみると、この課題は意外なほど、われわれの身近なものとなってくるであろう。「中道」というと、なにか哲学用語めいた響きを感ずる人も多いと思うが、釈尊はこのように、生活の知恵そのものとして、これを説いたのであった。 刻々と移り変わりゆく周囲の出来事に紛動されることのない自分──。読者のなかには、これから大切な子どもを育てゆく、若きお母さんも多いにちがいない。核家族化もあって、なにかと相談できる年配者もなく、育児書と首っ引きで悪戦苦闘中などという話もよく聞く。忙しさに追われているうちに、ついつい自分で自分の感情のとりこになり、言うことを聞かぬ子どもにあたりちらしたりする。それが高じて、悲劇を引き起こしたニュースなどを耳にすると、心が痛んでならない。
 忙しさのなかにも、静かに自分を省みる余裕をもってほしいと、私はしみじみ思うのである。
4  ある本で、警察犬を専門的に育てる訓練士の話を読んだことがある。ドイツのフランクフルトでのことである。
 彼は、気分がすぐれなかったり、気がかりなことがある日には、訓練を休むというのだ。なぜかというと、そういうときは、なにかのはずみで訓練中の犬に対して、本気で腹を立ててしまうからである。もちろん、訓練なのだから、叱ったり、ときには鞭を使うことも多々あるが、それには自分の心に余裕がなければならない。もし、一度でも本気で怒ってしまうと、もうその訓練はご破算である。犬がこちらを軽蔑し、訓練を受けつけなくなるからだというのである。
 嘘のような本当の話である。詳しいことは、専門の動物学者にでも聞かなければわからないが、私はこうしたことはありうると、自分の体験からも、そう思える。犬など、自分を可愛がってくれる人と、そうでない人とを、じつに敏感に見分けるものだ。まして相手が人間ならば、たとえ幼児であっても、こちらの感情の起伏する波長を、感じ取らないわけがない。
 一時の感情にとらわれ、環境に振り回されるようなことがあっては、まことに愚かな生き方と言わざるをえない。その意味で、いっさいは自分との戦いに帰着し、またそこから発するといってよい。
 「中道」とは、「道に中る」と読む。なにが道であるかは、むずかしい問題であろうが、それは決して固定的なものとしてあるのではない。さまざまに変化しゆく日々の生活のなかで、主体的に選び取らなければならないものであろう。
 「琴の弦」を緊めすぎたり、弛めすぎたりすることなく、見事な人生の和音を奏でていく日々でありたいものだ。

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