Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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水に浮かぶ影  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  仏典に、水面に映った自分の影に翻弄される男の話が出てくる。
 この愚かな男は、あるとき、池のほとりに立って、池の中にさかさまになった自分の姿に仰天する。「助けて!」。わめき叫ぶ声を聞いた人びとが走り寄る。
 「皆さん、わたしはいま池の中にさかさまに落ちて死のうとしています!」(前掲『仏教説話百選』206㌻)と訴える。人びとは笑って諌めるが、男は聞き入れようとしない。それどころか、水面に浮かび映る多くの人影を指さして「あなた方こそよっぽど馬鹿ですよ。わたしひとりだけの災難ではなく、あなた方みんなも池の中に落ちているというのに……」(同前207㌻)と言い張ってやまない。村人から見放された彼は、それでもなお、自分が池の中に溺れようとしていると思いこみ、助けを求めつづけて、最後は悲嘆のあまり狂い死んでしまった、という。
 笑うに笑えぬ話である。
 この男の顛末は、思い込みということの怖さ以上に、影に脅える人生の愚かさを象徴していると思う。一流大学を出てエリートコースを歩もうとする息子とその母親。そこに繰り広げられる、一見きらびやかな見栄の世界。そうした夢を追うのもいいかもしれない。しかし、それですべてが満足の軌道に乗るかといえば、決してそうではないと思う。見栄にはかならず嫉視がつきまとう。そして、嫉視のまなざしは、永遠に見はてぬ夢を追いつづけるであろう。虚夢は所詮、虚夢でしかない。大地を踏ん張る足をもたぬ亡霊であると気づいたとき、わが人生の来し方はなんとも無残なものと化していくにちがいない。「東大文一→大蔵省→総理」にとりつかれた母親は、あの愚かな男を笑うことはできない。
3  私の恩師は、生前よく「みずからの命に生きるべきだ」と強調してやまなかった。ああ見られている自分、こう見られている自分、それに一喜一憂し、焦ったり、劣等感で卑屈になったり、束の間の有頂天にひたってみたり……。そこには、自分でなければ生き栄えていくことのできない真実の生の実感はない。それでは水面に動くあの男の影と、少しもちがわないからである。
 まず、腰をすえ、深く息を吸い、みずからの足元を見つめてみたいものだ。そして、他人の思惑など気にせずに、自分の道を一歩一歩、着実に歩むことこそ、賢明な生き方ではなかろうか。 みずからの命に生きる──この平凡にして非凡な人生の真実に思いをめぐらすとき、私の網膜には、厳しくも温かい、わが人生にとっての恩師の慈顔が、さわやかに焼きついて離れないのである。

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